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2016/12/07

【臨済】随処作主 立処皆真

イラスト:nihhiイラスト:nihhi

今回は臨済宗の開祖・臨済義玄禅師の『臨済録』という書からことばをピックアップしてみました。「随処に主と作(な)れば、立処皆な真なり」と読み下せます。「どこにいても本来的な自分の姿を忘れなければ、いずれの場所にも真実を見出せるだろう」といったような意味になるでしょうか……。

大事なのは、この“本来的な自分”というのが、決して個人の枠の中のお話ではない、というところだと思います。たとえば、小出遥子という名の個人の資質を必死に向上させ、立派なものに保ち、それを「本来的な自分」として世間に提示したところで、どうしたって最後の隔たりは消えないのです。なぜなら、小出の思う「本来的な自分」と、隣の人の思う「本来的な自分」が同じであるという保証は、この世のどこにもないからです。

注目すべきなのは、でっちあげの「本来的な自分」などではなく、“「本来的な自分」を作り上げようと必死になっている自分の姿に気づいている自分”の方なのではないでしょうか。

自分があること。世界があること。その「当たり前の事実」にただただ気づいている、色もなく、かたちもない、それゆえに随所に満ち満ちている“本来的な自分”。そちらに「ストン」と落ち着いてしまえば、「真」も「偽」もなくなり、ただただすべてがそのままで「まこと」であることが思い出させるのではないでしょうか。

個人の枠の中にとどまっている限り、平和が実現されることはない。やはり大切なのは「気づき」にあるのではないかな、と。そんなことを思っています。

「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2016年12月4日発行号より転載)