Column
Dialogue
2017/01/14

横田南嶺さんとの対話/「ひとつのいのち」と「多様性としてのいのち」

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「<命>がずっと動いている」

横田:盛永宗興(もりながそうこう)老師という、私が非常に尊敬する臨済宗の老師がいらっしゃいました。もうお亡くなりになられていますけれどね、禅の難しい世界観を、実に合理的に、わかりやすく表現してくださる老師でした。その盛永老師はご著書の中でこんなことを語られています。

限られた個体が存在し続けている間が生命なのではなく、明滅しながら、生まれ変わり死に変わり、色々な形に変化し、雲となり、水となり、空気となり、(中略)木となり、草となり、人間となり、猿となり、ありとあらゆる現象として現れながら、その<命>がずっと動いている。

(『禅と生命科学』 盛永宗興=編)

横田:もう、ここにすべてが言い尽くされているね。いのちというものはひとつであると。ずーっと絶え間なく続いていると。その絶え間ないいのちが、千変万化したのがこの世界なのだと。このいのち観、世界観は、僭越ながら、私にもぴったりくる。そのものズバリだと思いますね。

小出:「限られた個体が存在し続けている間が生命なのではなく」と言い切られているのが素晴らしいです。ここを、私たち、みんな勘違いしているので。

横田:そうなんです。

小出:この、個体としての自分が死んだらもうおしまいなんだ、この肉体が滅びたらいのちも終わってしまうんだって。そういう大変な思い違いをはたらいていて。

横田:そう、それは思い違いなんだね。この肉体だけをいのちだと思っていたら、生きること、死ぬことは、ほんとうに苦痛でしかないと思うんですよ。でも決してそういうことではない。盛永老師も、「ありとあらゆる現象として現れながら、その<命>がずっと動いている」とお書きになられているでしょう。いのちはずっとあるんですよ。あって動いているんですよ。しかし、よく理解できない人たちは、ここを疑問に感じるんだね。すべてものものは変化していく、生滅の繰り返しだと言うけれど、いのちは不生不滅であるとはどういうことだ、矛盾しているじゃないかと。しかし、ここにはちっとも矛盾なんかありませんよ。

小出:いのち自体が、生まれ変わり死に変わりしながら、その姿をとどめることなく、無限の活動としてあると。

横田:そう。無限の変化の繰り返しがいのちの全体なわけですよ。

小出:「<命>がずっと動いている」。いのちというのは、つまりは活動なんですね。

横田:そうです。まさしく活動そのものです。

いのちはとてつもなくダイナミックなもの

小出:盛永老師は「明滅しながら」ということばでその活動を表現されていますが、宮沢賢治の「春と修羅 序文」という詩にもこんな表現がありますよね。

わたくしといふ現象は
假定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち、その電燈は失はれ)

小出:この「明滅」ということば、すごくいいなあって。いのちのダイナミズムがうまく表現されているなあと感動します。

横田:そうだね。いのちはとてつもなくダイナミックなものなんだ。

小出:決して、ものみたいにじっとしているわけではないんですね。

横田:仏教の根本原理は「諸行無常」「諸法無我」ということばであらわされます。しかし、この「諸行無常」というのも、非常に誤解されやすいんですよね。なにかこう、目先のものが移り変わっていくとか、変化し続けていくとか、滅んでいくとかね、ただそのわびしさを示しただけのことばにされてしまう。

小出:確かに、なにか陰気臭い、否定的なことばであるかのように感じてしまうところはあるかもしれないですね。

横田:しかし、滅び続けるのと同時に、あたらしいものもまた同時に生み出し続けていく、その大きな、ダイナミックなはたらきそのものを、ほんとうは「諸行無常」と言うんじゃないですかね。

小出:なるほど……。

「いま」の一点に無限の広がりがある

横田:大きないのちの流れの縦方向の活動が「諸行無常」、横方向の活動が「諸法無我」。こう考えていいんじゃないかと思っているんですよ。

小出:縦方向と横方向ですか?

横田:縦方向というのは時間ですね。遠い過去から現在に至るまで、無限の変化を繰り返しながら、いのちそのものがずーっと続いている。その無限の変化、発展の中には、ひとつたりとも同じ状態はない。そのことを指して、お釈迦さまは「無常」ということをおっしゃったのではないでしょうか。

小出:なるほど。縦方向は時間。すると横方向は空間になるでしょうか。

横田:そういうことですね。無限の広がり、つながり合いの中に「我」というものは仮に立ちあらわれてくるものであって、固定した「我」などというものはどこにもない。そのことを指して、お釈迦さまは「無我」いうことをおっしゃったのでしょう。

小出:「無常」と「無我」はセットなんですよね。「無常」なものを眺めている「我」がそこにいたらいけないというか、それを眺めている「我」だって常ならざるものなのに、その視点がどうも欠けてしまいがちというか……。そうなると、いのちそのもののダイナミズムに気づきづらくなってしまいますよね。

横田:その、いのちのダイナミズムというのは、まさしく「いま」の一点にあらわれるんです。

小出:「いま」の一点。

横田:縦方向の無限のいのちの流れと、横方向の無限のいのちの広がり。そのふたつがぴたっと合わさるところが「いま」の一点なわけですよ。無限が「いま」の一点に凝縮されているわけですよ。「いま」が無限である。「いま」しかない。「いま」がすべてで、すべてが「いま」なんですよ。

小出:「いま」がすべてで、すべてが「いま」。

横田:「いま」に無限のいのちがあるということです。

小出:いのちは、「いま」において、無限に広がっていくのですね。

横田:禅語に「無量劫の事、即如今(むりょうごうのじ そくにょこん)」というものがあります。「無量劫」というのは膨大な時間の長さをあらわすことばです。それがそのまま「いま」だと。この無限の「いま」から決して離れないようにしなさいと。「いま」から決して離れられないということに気づきなさいと。これが禅の教えですね。

小出:「いま」は、過去から未来に向かって不可逆的に流れる直線上の狭苦しい一点ではなくて、まさしく無限の広がりが凝縮されたものなのだと……。私たちがすべきなのは、ただただ、すべてとしての「いま」を生きていくこと。それだけなのかもしれませんね。

「そのものであること」と「そのものであると思い込むこと」はまったく違う

横田:盛永老師は、また、こんなことをおっしゃっています。

大いなる不変のいのちが、限りある相となって個性的に変化しつつ、そこには微妙な秩序と調和がある。

(『「いのち」と禅』 盛永宗興=著)

横田:私たち人間がどう生きていくべきか、その答えがここに書いてありますよ。いかに秩序と調和を保っていくか。そこに尽きるんじゃないかねえ。

小出:秩序と調和……。それで言えば、さっきも腸内細菌のお話がありましたけれど、ほんとうは、すでにすべてが調和しているわけですよね? いのちは、調和そのものだから。

横田:その通り。すべては調和の中にあります。

小出:それならば、「調和しよう」と思うことすら、力みになってしまいませんか?

横田:まあ、そうですね。

小出:でも、そうかと言って、決してやりたい放題やっていいわけでもなくて……。

横田:そう。そこが仏教でも一番大きな勘違いになるところなんですよね。仏教の真髄は、仏になることではなくて、すでに仏であることに気づいていくこと。それはその通りなんですよ。ただね、「仏のままである」ということと、「仏なんだからやりたい放題やっていいんだと思い込む」ということと、このふたつには大きな隔たりがあるんですよ。

小出:ああ……! 「そのものであること」と、「そのものであると思い込むこと」って、確かにぜんぜん違いますね。

横田:天地の違いがあるんです。しかし、頭だけで考えるとそれがわからなくなってしまうのね。そういう連中が間違いを犯してしまって、自分や周りを傷つけてしまうんだ。

「戒」はいのちの方向性を指し示した教え

横田:もちろん、さっき小出さんがおっしゃったように、ほんとうは努力もなにも必要なく、ただ調和がある世界というのが究極ですよ。しかし、現実には、やはり周りに迷惑をかけないようにしましょうとか、いのちを粗末にしないようにしましょうとか、そういう方向付けというのは、どうしても必要になってくるんですね。それが仏教では「戒」として伝えられているんですよ。

小出:「戒」ですか。

横田:しかし、この「戒」というのも、やっぱり、大きく誤解をされているなあと思うんです。「戒」というと、「これをするとこういう罰が待っている」とか「こんな悪いことをしたら地獄に落ちる」とか、そういうものだっていうイメージがあるでしょう。

小出:そうですね。「戒め」という漢字があてられているし……。

横田:しかし、元来、「戒」というのは、「戒め」とはまったく別のものなんですよ。

小出:そうなんですか!?

横田:「戒」というのは、梵語で「シーラ」になるんですね。「シーラ」というのは、「習慣をつける」という意味なんです。つまり、「戒」というのは「良い習慣をつける」というのがもともとの意味なんですね。「こころに良い習慣をつけていきましょう」と。そういうものなんです。

小出:へええ……。

横田:なぜ良い習慣が必要なのか。いのちを生かしていくためです。「戒」というのは、すべて、いのちを生かす、その方向性をさし示したものなんです。「五戒」というのも、すべてこれで解釈できる。嘘偽りを言ったり、悪口を言ったりすると、互いのいのちがしぼんでしまう。人のものを盗ったときも同じことが起こる。互いのいのちが弱ってしまう。お酒に酔って人に迷惑をかけると、互いのいのちが傷ついてしまう。

小出:お酒に関しては、耳と胸がものすごく痛いです……。

横田:そう?(笑) これはね、やっぱり、すべていのちの方向性を指し示した教えなんですよ。そう考えると「戒」を理解できるでしょ。栗生隆子さんとの対話の中でも、細胞は自然と光を目指すっておっしゃっていたじゃないですか。あれと同じです。方向性を示すものとして「戒」はあるんです。……ちょっと話がズレちゃったね。

小出:いいえ、ぜんぜん! ありがとうございました。貴重なお話でした。