Column
Dialogue
2017/01/14

横田南嶺さんとの対話/「ひとつのいのち」と「多様性としてのいのち」

yokota3

「こういうものだ」とつかんだ途端にいのちでなくなる

横田:さて、いのちの話の続きに戻りましょうか。これも盛永老師のことばです。

仏というものはこういうものじゃという思い込みがあったら忽ち仏ではない、衆生というものがそこにできてしまう。

横田:これは「仏」を「いのち」と置き換えてもいいでしょう。「いのちというものはこういうものだ」という思い込みがあったら、それはいのちではないと。そこには「いのち」と「いのちではないもの」との隔たりができてしまうと。

小出:今日の対話の最初に横田老師がお示しになったことですね。だから「いのちの話をするなんて気に入らない」とおっしゃられたんですね(笑)。

横田:そういうことです。「丙丁童子来求火(びょうじょうどうじらいぐか)」という禅語があります。丙丁童子というのは、火の神さまのことです。火の神さまが「火とはなんだ」と聞いている。「お前が火だ」。それ以外に答えはありません。「いのちとはなにか」「お前がいのちだ」と。こう言うしかないんです。

小出:ああ……。

横田:私もよくこんな話をするんですよ。「今日、いのちを忘れてきた人いますか?」「もし忘れてきた人がいたら手を挙げてください」って。

小出:(笑)

横田:手を挙げる人がいたらね、「その手を挙げているのがいのちなんです」と(笑)。こういうのが禅問答なんです。単純明快でしょ。

小出:そういう風に教えていただければ、確かに、びっくりするほど単純明快です。

横田:禅問答は、なにやら難しいもののように思われているけれども、基本はものすごくシンプルなんですよ。『景徳伝灯録』にもこういった話が載っています。

(無業和尚伝)師、礼し跪いて問ふて曰く。三乗の文学はほぼ其の旨を窮む。常に禅門の即心是仏を聞けども、実に未だ了ずること能はずと。馬祖曰く。只だ、未だ了ぜざる底の心のみ即ち是にして、更に別物無しと。

横田:無業和尚という人が仏教学をほぼ極めた。しかしながら、心が仏だということだけがわからない。そこで馬祖という人に「これはどういうことですか」と質問したんですね。すると馬祖はこう答えた。「わからんというやつが、まさしくそれだ」と。「わからんと言っているそれが仏だ」と。「わからないと言っているそれ以外に仏はない」と、こういうことなんですね。わかりますでしょ。禅問答、ちっとも難しいことないじゃないの。

小出:ものすごくシンプルですね!

仏性は五目おにぎりのようなもの!?

横田:臨済禅師がさとりをひらくときの話も面白いですよ。臨済禅師は黄檗禅師という人のところに参禅に行くんですね。そこで長年坐禅だけをしていた。三年経ったころ、臨済禅師は黄檗禅師の前に行って「仏法とはなんですか」と質問をした。すると、黄檗禅師はいきなり臨済禅師を叩いてきた。臨済禅師はびっくりして飛び出した。その後、三回同じことを繰り返して、これじゃ埒があかないというので、臨済禅師は大愚和尚という別の人のところに行くんです。それで、「私が質問したらいきなり叩かれました。黄檗禅師はほんとうにひどい和尚です」と伝えたんですね。それをじっと聞いていた大愚和尚は、ひとこと、「黄檗はそんなに親切な人間であったか」と言った。そう言われた瞬間、「はっ」と気がついたと、こういうお話なんです。

小出:へええ。面白い!

横田:「いのちとはなんですか」「お前がいのちだ」と。「これ以外にないだろう」と叩いて教えているわけですよ。仏法とはいのちそのものです。

小出:臨済禅師のことが気に入らないから叩いていたわけじゃなくて、叩くことによって、ダイレクトに、「これがいのちだ」「聞いているやつがいのちだ」と教えてくれていたんですね!(笑)

横田:そういうことです。だから「黄檗は親切だなあ」と、こういうわけなんです。「黄檗禅師はまったく余計なことをしなかった、そのものズバリを私に示してくださっていたんだなあ」と。大愚和尚のことばを聴いた瞬間、臨済禅師はそれをさとったんでしょうね。

小出:そういうことだったんですね……。

横田:『頓悟要門』という書物にもこんな話が載っています。これも同じ話ですね。

(大珠慧海)師初め江西に至り馬祖に参ず。祖問う、何処より来たる。曰く越州の大雲寺より来たる。祖曰く、此に来たって何事をか須めんと擬す。曰く、来たって仏法を求む。祖曰く、自家の宝蔵を顧ず、家を抛って散走して什麼か作す。我が這裏、一物も也無し。什麼の仏法をか求めん。師遂に礼拝して問うて曰く、阿那箇か是れ慧海自家の宝蔵。祖曰く、即今我に問う者、是れ汝が宝蔵。一切具足して更に欠少無し。使用自在。何んぞ外に向かって求覓することを仮らん。師言下に於いて大悟す。自らの本心は知覚に由らざることを識り、踊躍礼謝す。師事六載。

横田:大珠慧海がはじめて馬祖に参禅をしたときのこと。馬祖が「どこから来たか」と言うので、「越州の大雲寺から来ました」と答えた。「なにを求めてきたか」。「仏法を求めてきました」。すると馬祖は、「宝はお前の中にあるじゃないか。外に向かってなにを探そうとしているのか。私はお前に示すような仏法はなにひとつない」と言った。「ではいったい、私にある宝とはなんですか」。それに対して馬祖は「いま質問したやつ、それが宝だ」と。「いま聞いているもの、それがいのちそのものだろう」と。「それが宝だろう」と。「すべてはそこに備わっていて、なにも欠けることはない。その活動が禅であり、いのちであるのだ」と。

小出:活動そのものがいのちである……。

横田:これが臨済禅の特徴なんです。ある先生が面白いことをおっしゃっていましたよ。臨済以前の「仏心」「仏性」というのは、いわば、梅干しのおにぎりのようなものだと考えられていた。ご飯の中に梅干しがあるでしょう。米粒は煩悩、梅干しが仏性。煩悩をのぞいたら梅干しが取れると。しかし、臨済以降の禅では仏性をそんな風には見ない。強いて言えば、仏性は五目おにぎりのようなものなんだと(笑)。

小出:仏性も煩悩も渾然一体になっているんだと(笑)。

横田:そういうこと。具だけを取り出すことはできないんだと。なるほど、うまいこと説明するなあと思いましたね(笑)。こうして活動している全体が仏性だ、いのちだと。こういう見方ですね。肺が肺のはたらきをしている。胃袋が胃袋のはたらきをしている。大腸が大腸の働きをしている。手がこうして動いている。口が動いて話をしている。その全体がそのまま仏性であり、いのちなんですな。

小出:余すところなくすべて。まさしくすべてが、いのちなんですね。

姿ではなく、いのちを見る

横田:辻光文(つじこうぶん)先生という方がいらっしゃいました。この方は、もともと臨済宗のお寺の生まれでね。柴山全慶(しばやまぜんけい)老師という当時の南禅寺派の管長さんから、非常に将来を嘱望されておったんです。しかし、この方はいまの仏教界のあり方に疑問を抱いて、お寺には入らずに、非行や問題行動を起こした子どもたちを預かる施設を作って、一生涯、じっと、そういった方々のお世話をして過ごされたんです。

小出:そんな方がいらっしゃったんですね……。恥ずかしながら、存じ上げませんでした。

横田:その辻先生が、あるとき、S子さんという少女を施設で預かるんですね。その少女というのが、もう、名うてのワルで。とにかく悪い。言うことをきかない。暴れる。問題行動ばかりを起こす。それで、まあ、さすがに辻先生も手を焼いて、「この子さえいなければ……」と思っていたらしいんです。ところが、その少女がですね、あるとき悪性腫瘍を患って、余命数か月だと宣告されるんです。そこではじめて、辻先生は、「ああ、自分は、この子のいのちを見ていなかった」と、こう気がつくんですよ。「自分の都合でしか見ていなかった。姿だけを見て、いのちを見ていなかった。すまないことをした。申し訳ないことをした」と。その反省の中で、辻先生が作られた詩がこちらです。

「いのちはつながりだ」と平易に言った人がいます。
それはすべてのもののきれめのない、つなぎめのない東洋の「空」の世界でした。
障害者も、健常者も、子どもも、老人も、病む人も、あなたも、わたしも、
区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち、
いのちそのものです。
それは虫も動物も山も川も海も雨も風も空も太陽も、
宇宙の塵の果てまでつながるいのちなのです。
劫初よりこの方、重々無尽に織りなす命の流れとして、
その中に、今、私がいるのです。
すべては生きている。
というより、生かされて、今ここにいるいのちです。
そのわたしからの出発です。
すべてはみな、生かされている、そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、
唯一、人間の感動があり、愛が感じられるのです。
本当はみんな愛の中にあるのです。
生きているだけではいけませんか。

横田:「空(くう)」というのもね、まあ、難しい概念にされてしまいがちですけれど、つまりは、こういう、つながり合いの世界なんですよね。無限のつながり合い、無限の広がりですよ。

小出:つながりがそのまま「空」であると。つまりは、いのちであると。

横田:大きなものとつながっているという、この実感は、やはり、生きていく上で大きな力になるんですよ。そのつながりを感じることは、人間、できるんだと思うんですよね。そして、それこそがいちばんの感動になる。最後、すごいでしょう。「すべてはみな、生かされている、そのいのちの自覚の中に、宇宙続きの、唯一、人間の感動があり、愛が感じられるのです。本当はみんな愛の中にあるのです。生きているだけではいけませんか」と。

小出:力強い問いかけです。

横田:私がこの辻先生の詩を知ったのは、ちょうど、あの、相模原の障害者施設での事件のあったあとだったんです。だから、なおのことこう思ったね。目に見える現象、自分だけの都合、功利主義的な考え、そこしか見ていない。いのちを見るということができなくなっている。ああいった事件は、そういったものの見方の結果として起きてきたんじゃないのかなと……。

小出:そうなのかもしれませんね……。

一呼吸一呼吸が無限のいのち

横田:辻先生は、最晩年に、こんなことをおっしゃっていたそうです。神渡良平(かみわたりりょうへい)先生という作家さんのインタビューからの抜き出しです。

今はこうやってベッドに寝ているしかなくなりました。こうして呼吸しているいのちを見詰め、味わっていると、次第に見えてくるものがあったんです。生も死も別物ではなく一如、二つ別々に分けることができない不二の世界でした。自分と他人は分けることができない“一ついのち”であるように、何と生と死も分けることができない“一つつながり”だったのです。

(『共に生きる』 神渡良平=著)

横田:病床で自分の呼吸を見つめていると、生と死の間には切れ目、継ぎ目がないことがわかったというんですね。生と死はひとつながり。いのちはひとつながりであると。

小出:さきほどの詩は、横田老師のことばをお借りするのなら空間的な横のつながり。こちらのインタビューのことばは、時間的な縦のつながりをあらわしているように感じます。

横田:そういうことです。その横軸と縦軸とが交わったところに、「いま」のこの一呼吸があるんですな。この一呼吸を見つめれば、生と死の切れ目がないということがわかる。これは、禅の究極だなあと思いますね。

小出:禅の精神の極みでもあるし、そのまま「南無阿弥陀仏」の世界でもあると感じますね。

横田:そうでしょうね。生と死の切れ目がないというのは、つまりは「無量寿如来」の世界ですから。

小出:無量寿如来は、阿弥陀如来の別名ですものね。

横田:ふうっと息をしている。この一呼吸が無限のいのち、つまりは無量寿如来、阿弥陀如来であると。辻先生はこういう風には表現されていらっしゃいませんけれども、同じことだと思いますね。ここにすべてが言い尽くされている。

小出:ほんとうに、ありがたいことです。南無阿弥陀仏……