Column
Dialogue
2017/01/14

横田南嶺さんとの対話/「ひとつのいのち」と「多様性としてのいのち」

yokota4

「ひとつのいのち」があるからこそ多様性を発揮できる

小出:少しさかのぼりますけれど、辻先生の詩の中に、「区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち」という表現がありましたよね。ここが、すごく素敵だなあって。

横田:そう、つながっているけれど、「区別」はできるんですよ。ここは大事なところですね。

小出:でも、「いのちひとつ」ということばだけを聞くと、人間、どうしても、なにかのっぺらぼうみたいな、平坦でつまらない世界をイメージしてしまいがちなんじゃないかなって。でも、「区別はできても、切り離しては存在し得ないいのち」というのは、つまりは、個々のいのちがそれぞれに個性を持ちながらも、全体としてはひとつとして動いているということですよね。ベースに「ひとつ」があるからこそ、安心して個性を発揮できる世界というか……。そっちがほんとうなんじゃないかなって。

横田:それに関してはうまいたとえがありますよ。いのちというのは、昔の日本画でいうニカワのようなものだと。

小出:ニカワですか?

横田:昔はね、絵を描くときに、絵の具をニカワで溶いたの。どんな色でもニカワで溶くんです。つまり、青でも、赤でも、そこにはニカワが入っているんですよ。だからちゃんと塗れるんですよ。いのちというのは、このニカワのようなものです。すべてに満ち満ちている。かと言って「これだ」と言って取り出すことはできないんですね。

小出:すごい! わかりやすいです。ベースにニカワがあるからこそ、それぞれの色を発揮できる。ベースにひとつのいのちがあるからこそ、それぞれの個性、多様性を発揮できるんですね。華厳で言う「一即多」「多即一」の世界。「一」も「多」が、なんの矛盾もなく同居している。般若心経の「色即是空」「空即是色」もこういうことなのかもしれませんね。「色」も「空」もわけられなくて、同時にあるんだと。

横田:そういうことですね。

そもそもみんな世界にひとつだけの花

横田:多様性ということで言えばね、ちょうど昨日、養老孟司先生との対談をうちの寺でやっていたんですよ。面白い話をされていましたよ。先生が言うには、動物は「同じ」ということがわからない、と。

小出:「同じ」ということがわからない?

横田:たとえば家族でシロという名の猫を飼っているとしますよね。お父さんが「シロ」と呼びかける。お母さんが「シロ」と呼びかける。子どもが「シロ」と呼びかける。この3つを同じ「シロ」だと認識するのは人間だけ。猫はそれぞれをまったく違う音として認識していると。動物は絶対音感の世界で生きているんですね。ところが人間は、お父さんの「シロ」も、お母さんの「シロ」も、子どもの「シロ」も、みな同じ「シロ」だという風に概念化してしまうんです。

小出:なるほど。

横田:こんな話もされていました。赤いペンで青という文字を書く。これはなんだと問いかけると、人間は「青」と答える。しかし、動物はそれをそのまま「赤」と見るんだと。

小出:面白い!(笑)

横田:動物の見ている、絶対的な違い、変化のある世界がほんとうなんですよね。ところが人間はすべてを同一化しようとするでしょう。いまなんか、どこに行っても同じコーヒーショップがあって、どこに行っても同じファミレスがあるじゃない。みんな同じものを求めようとするんだね。

小出:地方の国道沿いなんか、ほんとうに、どこに行っても同じ街並みが広がっていますものね……。

横田:いまは道路そのものにも変化がなくなってしまった。昔の道は毎日違いました。雨が降ればぬかるむし、日照りが続けばほこりが舞うし、毎日違うのが当たり前だったんですよ。しかしそれだと大変だからということで、みんなアスファルトで舗装してしまった。これはつまらないですよ。その究極がグローバル化だと、養老先生はおっしゃっていた。世界中が同じ価値観に染まって、同じものを共有しようとしている。そんなことを突き詰めた先はどうなるでしょう。いのちがないがしろにされるような世界が広がっていくだけですよ。いのちは本来、多様性そのものなんだから。

小出:多様性としてあらわれるのが、いのちの特性ですものね……。

横田:先日もね、丸の内に講演に行ったんですよ。随分綺麗なところでしてね。ビルの中、塵ひとつないんです。セキュリティーも万全で。会場には同じようなスーツを着た人たちがぴしっと立って並んでいてね……。寺に帰って、私、ほんとうにほっとしましたよ。昨日の養老先生の講演会にもいろんな人たちが来てくださっていてね。お母さんが子どもを連れてきたりね、年寄りがごろごろしていたりね(笑)。みんなのびのびとくつろいでおって……。この多様性こそが、いのちの世界なんだなあ、と実感したことです。

小出:その光景を想像しただけで、私も、なにか、ほっと安心しました。

横田:多様性があるのが当たり前なんです。でも、時代は画一化の方向に進んでしまった。だから「世界にひとつだけの花」とかいう歌が流行るんでしょう。

小出:(笑)

横田:昔はね、みんな、当たり前のようにして、世界にひとつだけの存在として、ひとりひとりが生きていたんですよ。そんなこと、いちいち言う必要もなかったの。でもあんな歌が流行るということは、それだけ大切なことが見失われているということでしょう。そんな話を養老先生はされていました。

小出:考えさせられるお話です。

「知らない」というのがいちばん素晴らしい

横田:いのちは、個々別々、曲がりくねったのもあれば、ひねくれたものもある。それでいいんですよ。世界はそれで上手に調和を保つんです。それをみんな変に揃えようとするからおかしなことになってしまうんですよ。なにかそっちの方が都合がいいと思われているから、そうなってしまうんでしょうけれど。

小出:多様性を認めるというのは、つまり、自分のわからないことが増えることとイコールだから。それが、みんな、恐ろしいのかもしれないですね。

横田:そうだねえ。みんな、なにか「わかっていたい」という気持ちがあるのかもしれませんね。しかし、それが問題の根本なんだな。盛永老師はこんなことをおっしゃっています。

限りないものはわかったとは言えません。だから禅宗では知らないということが一番素晴らしいこと、「知らざる最も親し」という言い方をするんです。

横田:これ、いいでしょう。

小出:「知らざる最も親し」! いいですねえ! わからなくてもいい、わかりようがないんだから、ということですね。

横田:そう。そこに安らぎを持たなければ仕方ないんですよ。昔の人はね、農業を通して、明日のことはわからない、というところを直に生きていたんですよ。自然相手ですからね。去年こうだったからといって今年も同じかというと全然違う。毎日違うのが自然というものなんですよ。ところが、いまの人はなんでもかんでもマニュアルを作りたがるでしょう。去年そうだったことは、今年もそうなるんだって言って疑わない。私どもも修行道場で梅干しを作っていますけれど、ある年のことですよ。土砂降りの雨の日にね、雲水が、梅干しを一生懸命干しておるのよ。びっくりしてねえ。「おい、なんで今日干しているんだ」って言ったら、「去年の今日梅を干したって帳面に書いてありました」なんて言うんですよ。

小出:ほんとうですか?

横田:いや、実話なんですよ。そういう人間が生まれてしまうのが現代の病理ですよ。いのちの実感が失われてしまっているんでしょうなあ……。

小出:マニュアルに頼ってしまうのも、やっぱり、「わからない」に対面するのが怖いという心理から来るのでしょうね……。我が身を振り返って、そう思いますよ。

横田:そうなのかねえ。しかし、わからないこと、知らないことは、決して恐ろしいことではないんだけれどね。

小出:すべての大元にあるいのちのことすらわからない、わかりようがないのだから。

横田:そういうことですね。

わからなくても、知らなくても、懐(いだ)かれている

横田:こんな歌があります。

その中にありともしらずはれわたる空に懐かれ雲のあそべる 九条武子

横田:雲は大空のことなんか知りません。しかし、確実に大空の中にあって、そこでのびのびと遊んでいる。知りもしない、わかろうともしないけれども、しかし、確実に、そこに懐かれている。その安心感はあるんでしょうな。この安心感というのが、いちばん大事だと思うんですよ。

小出:安心して、わからないことにくつろいだままに生きていける世界。いいなあ……。

横田:しかし、現代は真逆の方向に進んでしまっている。やっぱり教育に問題があるんですよ。子どもが「わからない」と言うと怒るから。ほんとうはそこで褒めてあげなきゃだめなんだ。

小出:「わからないというのは素晴らしいことだよ」って。

横田:いまはね、どうしても、わからんっていうと、わかるまで教えようとしてしまうでしょう。それが大きな間違いなんですよ。

小出:わからないことを、わからないままに、そのまま認める力が、そのまま、いのちの多様なあらわれを受容する力になるのでしょうね。でこぼこはでこぼこのままでいい、そのままで調和が取れているんだって。そのことが信じられないから、どうにか、世界を平坦なものにしてしまおうとする。そうして自分の理解できるものに変えてしまおうとする。理解ができれば、ちょっと安心できるような気がするんですよ。でも、それはニセの安心感ですよね。

横田:ニセですね。だからかならずほころびがくる。そんなものに頼るよりも、思い切ってわからないことにくつろいでしまう方がいいんじゃないですか。

小出:「わからない」の海は、思っている以上に、やさしいです。

横田:そこを実感していくことが大切なんです。禅はそこをまっすぐに説いているんですよ。わかりやすいでしょう(笑)。

小出:ほんとうに、わかりやすいお話でした。……というところでお時間がきてしまいました。「ひとつのいのち」と「多様性そのものとしてのいのち」。そこがなんの矛盾もなく統合されていて……。理屈抜きで、ただただ、感動しました。横田老師といのちのお話ができてよかったです。ほんとうにありがとうございました。

横田南嶺(よこた・なんれい)

1964年和歌山県生まれ。1987年筑波大学卒業。在学中に出家得度し、卒業と同時に京都建仁寺僧堂で修行。1991年円覚寺僧堂で修行。1999年円覚寺僧堂師家。2010年臨済宗円覚寺派管長に就任。

著書に『いろはにほへと―鎌倉円覚寺 横田南嶺管長 ある日の法話より』(インターブックス)、『祈りの延命十句観音経』(春秋社)、『禅の名僧に学ぶ生き方の知恵』(到知出版社)、『二度とない人生だから、今日一日は笑顔でいよう 生きるための禅の心』(PHP研究所)、『人生を照らす禅の言葉』(到知出版社)など。

※この対話記事をベースとして、2月12日(日)に「Temple@円覚寺」というイベントを開催いたします。ぜひ、ふるってご参加くださいませ! くわしくは当サイトEventページをご参照ください。