Column
Dialogue
2017/02/11

前野隆司さんとの対話/いのちのはたらきと幸せは科学で証明できる!?

「受動意識仮説」は智慧、「幸福学」は慈悲

小出:ところで、いまのお話をお伺いしていて、仏伝の中にある「梵天勧請(ぼんてんかんじょう)」というエピソードを思い出しました。お釈迦さまも、菩提樹の下でさとりをひらかれたあと、しばらくの間は、ご自身おひとりの安寧の境地にいらっしゃったらしいんです。でも、そこに梵天さまが現れて「どうか、あなたがさとられたことを、いまだ苦しみの中にいる人々にお伝えください」とお願いをされた。お釈迦さまは、最初はそれに抵抗されたらしいのですが、最終的には納得されて、樹下から立ち上がったんですね。そこから仏教がスタートしたと言われています。前野先生の前には、梵天さまこそあらわれなかったとしても、これと同じことが起きたんじゃないかな、って。

前野:うん。そういう言い方をすれば、そういうことになるのかもしれない。「受動意識仮説」と「幸福学」って、西洋的に言うと、哲学と倫理学にあたるんですよ。

小出:「受動意識仮説」が哲学、「幸福学」が倫理学、ということでしょうか。

前野:そうです。「受動意識仮説」は哲学に対応しているんです。心とはそもそもどういうものなのか、それを解き明かしていく学問。心の哲学という分野です。一方「幸福学」は、「べき」の学問といわれる倫理学に対応します。いかに幸せに生きるべきか、それを研究していく学問ですね。

小出:このふたつはセットになっているのですね。

前野:そう。いまの話にもありましたけど、お釈迦さまも、さとりをひらく前に、まずは菩提樹の下に坐って、心を鎮めるということをしたわけでしょう。その鎮まった心で、徹底的に考えて考えて考え抜いて、最終的に「無」の境地を見出した。それと同じで、まずは人間、心を整えて幸せを実感することから始めないと、なかなか、まあ、さとりの境地というか、ほんとうの意味での、ゆるぎない幸せの方には目が向いていかないんじゃないかということに気づいたんです。それで、「受動意識仮説」だけじゃなくて、「幸福学」の研究も始めた、というのが経緯です。

小出:哲学としての「受動意識仮説」、そして倫理学としての「幸福学」。どちらが欠けてもうまく回っていかない。それこそ両輪のようなものだということですね。

前野:はい。そういうことです。

小出:仏教のことばで言えば、「受動意識仮説」は智慧、「幸福学」は慈悲にあたるのかもしれないな、と思いました。「無」をさとると(智慧)、自他の苦しみのメカニズムがよりリアルに見えてくる。すると、その苦しみを抜き去るために、具体的な行動を取り始めて(慈悲)、その行動の中で、いままで以上にこの世の仕組みのようなものも見えてきて(智慧)、するとさらに自他の抜苦与楽のために具体的な行動が取れるようになって(慈悲)……。その無限の繰り返しの中に、いのちというものがリアリティをもって立ちあらわれていく。やはり、このふたつは、どちらが欠けてもいけないんですね。

いのちへ続く道はひとつではない

前野:仏教というのは、哲学と倫理学を総合した学問のようなものなんだなというのは、僕も、最近、リアルに実感していたところですね。

小出:学問……。そう、仏教は学問であるとも言えますね。そういう意味でも、仏教は、厳密な意味では「宗教」ではない、と言われたりもしていて。仏教というのは、教えを盲目的に「信じて」「すがる」のではなくて、実際に自分の心と身体で「感じて」「納得して」「実践していく」道ですからね。

前野:もちろん、現代の仏教には宗教的な側面もあります。と言いますか、その側面が強いかも知れませんが、もともと、仏教は、思想ないしは学問だったのだと思います。

小出:そうですか。ところで、いま、私、「道」ということばを使いましたけれど、前野先生が科学的なご研究の結果として指し示されている地点と、仏教が最終的に指し示している地点……それをここではいのちという三文字であらわしているわけですけれど、それがぴったり重なっていくのがすごく面白いというか、そこに希望があるような気がしているんです。

前野:なるほど。

小出:最終的な地点はひとつだけれど、そこへの気づきに至るまでの道は無数にあって、それこそ縁に従って、自分に合った道を愚直に歩んで行けば、きっと、開けていくものがあるんだろうなって。これは、人類にとって、ものすごく大きな希望になるのではないでしょうか。このTempleというサイトも、実は仏教に特化したものではなくて、それこそ、いのちに続く無数の道を紹介するプロジェクトのうちのひとつ、という位置づけなんですよね。だからお坊さんだけじゃなくて、ときには発酵生活研究家の方、ときにはスポーツトレーナーの方にもお話を伺ったりして……。これから先も、どんどん、いろんな分野でご活躍されている方々といのちの対話を行って、それを記事にまとめて発表していこうと思っています。

前野:素晴らしいですね。応援しています。

小出:ありがとうございます。ほんとうに、できるだけ多くの人が、自分に合った道を見つけられたらいいな、と思っていて。繰り返しになりますけれど、道はひとつじゃなくて無数にあるわけですからね。だから、たとえば「宗教は非科学的で信用ならない!」と思う方には、「科学の方面からいのちの実相を説いてくださっている前野隆司先生という方がいらっしゃいますよ」とご紹介できますし。とくに現代人は、数値化できないものを信じない傾向が強いですからね。そういう意味でも、数値的なエビデンスをきちんと表示された上で緻密に論を紡ぎ出される前野先生のような存在は、ほんとうに貴重で、ありがたいな、と思っています。

前野:ありがとうございます。

「無意識領域の小びとたち」に任せていたらベストセラー本ができた

小出:前野先生という存在のユニークなところは、あくまでも科学の見地に立脚されて、ものすごく論理的な説明をされるのに、決してドライな印象を受けないところなんですよね。感性に非常に強く訴えかけてくるものがあるというか。たとえば先生が「受動意識仮説」の説明でよく使われるこの絵なんかも、ものすごくアーティスティックですし……。

前野:ああ、これですか。

小出:これって、そのまま曼荼羅ですよね。

前野:ああ、やっぱりそう思いますか。実はね、この本を出してすぐの頃、海猫沢メロンさんという作家の方が僕に会いにいらして、かなり興奮した様子で「先生、これは曼荼羅ですよ!」っておっしゃったんですよ。

小出:ええ。間違いなく、曼荼羅だと思います。

前野:そうなんですか。僕としては、当時はそこまで仏教のことを意識していなかったし、曼荼羅だと思って描いたわけじゃありませんでした。だから、海猫沢さんにそう言われても「はあ、そうですか」としか言えませんでした。具体的には、どのあたりが曼荼羅なんですか? だって曼荼羅って、あの、仏さまがいっぱい描いてあるやつでしょ? 似ていないじゃないですか。

小出:絵そのものが曼荼羅に似ている、というわけじゃなくて、ここで表現されている世界観が、曼荼羅の世界観と重なると思うんです。

前野:世界観が、ですか。

小出:「色即是空」「空即是色」式に言えば、「自分即宇宙」「宇宙即自分」みたいな……。まあ、仏教にも「自他一如」ということばがありますけれど、そういう世界観ですよね。「自分」と「宇宙」、あるいは「世界」がひとつらなりのものとして存在している。それが、この絵にはばっちり表現されているなあって。そこが曼荼羅と共通していると思うんです。

前野:ああ、そういう意味ですか。12年間の謎が解決しました。つながりの世界観が共通しているんだ。なるほど。いまの話でやっとこの絵が曼荼羅だと言われた意味がわかりました。すっきりしました(笑)。

小出:お役に立ててうれしいです(笑)。この絵は、先生ご自身がお描きになられたんですか?

前野:はい、元絵は僕が描きました。

小出:すごいなあ……。ほんとうに多才でいらっしゃいますね。

前野:「受動意識仮説」を発表した頃は、いろいろやっていましたね。でも、いま思い出すと、『脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説』という本を書いたときは、僕、完全にフローに入っていたな、と思います。いま読み返してみても、うーん、我ながらうまいこと書いてあるなあって感心してしまいますもんね(笑)。別にスピリチュアルを信じるわけじゃないんですけれど、やっぱり、どこかとつながって、そこから降りてきたものを、そのまま流れるように書いた感じはありますよ。

小出:へええ! それこそ、「受動意識仮説」で言う「無意識領域の小びとたち」のはたらきに任せているうちに、いつの間にか書き上がってしまったという感じですか?

前野:うん、そうですね。いつの間にかね。

小出:「意識ではなく、無意識の領域が私たちを動かしている」というご自身の論を、ご自身で実証されたんですね。