Column
Dialogue
2017/03/11

二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける

撮影:三田村亮

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、歌手である二階堂和美さんをお訪ねしました。

私は、二階堂さんを、真の「アーティスト」だと感じています。対話の中にも出てきますが、二階堂さんのライブステージには、「歌う人」がいないのです。そこにあるのは、純粋な「歌」。ただ、「歌」だけがある。その様子には、ああ、ほんとうの「表現」がここにある、「いのち」の発露がここにある……と、涙を抑えることができません。

そんな二階堂さんの歌と切っても切り離せないのが仏教の思想。そう、二階堂さんは、浄土真宗本願寺派のお坊さんでもいらっしゃるのです。ご本人も「私の布教はこれですね」と笑っておっしゃっていましたが、歌詞はもちろん、歌うお姿そのものから、仏教の真ん中にあるもの……つまりは「いのち」の真ん中にあるものが、とにかくダイレクトに伝わってきて……。

今回の対話でも、音楽のお話をしていたかと思えばいつのまにやら仏教のお話になっていて、仏教のお話をしていたかと思えばいつのまにやら音楽のお話になっていて……ということが何度も繰り返されています。ほんとうのところ、それらは、決して分けられるものではないのでしょう。仏教という指。音楽という指。かたちは違っても、それぞれが指し示す先にあるものは、ただひとつの、同じ「いのち」なのでしょう。

ほんとうの意味で「いのち」を大切にするとはどういうことか……二階堂さんのことばには、そのヒントが満ちています。

まさしく、いま、このときにこそお読みいただきたい対話です。どうか、最後まで、じっくりとおたのしみくださいませ。

※このダイアローグをベースとしたイベントも開催いたします。詳しくは記事の最後でお知らせいたします。どうかお見逃しなく!

ライブ中は自分が自分じゃないような感覚があります

小出:今回は「いのちからはじまる話をしよう。」ということでお邪魔しています。

二階堂:いいんですか? 私なんかで。お役に立てるとうれしいですけれど……。

小出:もうね、二階堂さんは、そのままいのちを生きているというか、まさしく、いのちが二階堂さんを生きているな、と感じておりますので。二階堂さんとお話しできること、ほんとうにたのしみにして参りました。

二階堂:いやいや(笑)。ありがとうございます。

小出:今年1月のキネマ倶楽部にもお邪魔して、そこであらためて感じたのですが、二階堂さんのライブって、まさしく、文字通りの「LIVE」なんですよね。生(なま)であり、生(せい)であり、それこそいのちそのもの。二階堂さんのライブを見て、ライブということばの意味が、大げさじゃなく、生まれてはじめてわかったというか、「ストン!」とおなかに落ちたような気がしたんです。

二階堂:ああ、うれしいです。

小出:いのちの躍動を、まるごと、そのまま見せていただいた気がしていて。だって、もう、二階堂さん、最初から最後まで全力で、出し惜しみなんか一切しないで、一曲一曲「これが最後だ!」みたいな感じで歌い続けていらっしゃって……。ほんとうに、ものすごく、感動しました。ありがとうございました。

二階堂:こちらこそありがとうございます。うれしい。でも、自分にとってはそれが普通というか、人前でなにかをするっていうのは、もう、ああいうこと以外にはないと思っていて。あれが私にとってのライブパフォーマンスなんですよね。なので、ほんとうに、最初から、それこそリハーサルの段階から全力でいきすぎて(笑)。子どもを産んだときに思ったんですよね。「ああ、ワンマンライブ一本やりきった感じ」って。

小出:(笑)

二階堂:「普段のライブで、出産ぐらい頑張っているんだ、私」って(笑)。

小出:すさまじいです(笑)。

二階堂:ほんとにね(笑)。でも、不思議なことに、普段、ほかのことにはぜんぜん体力を使えないのに、ステージに立っているときだけは全力を出せるんですよね。全力でステップも踏めれば、歌も歌えてしまう。

小出:動こうと思う前に、身体が勝手に動いてしまう?

二階堂:そう、動いちゃうんですよね。

小出:それこそ、ライブ、生(せい)、いのちの動きなんでしょうね。

二階堂:ねえ。そうなのかもしれないですよね。パフォーマンス中は、自分が自分じゃないような感覚があるんですよ。ライブを終えて、その日の夜中とか、次の日の朝とか、ふっと「ああ、あの人、いったい誰だったんだろうな……」って。ステージが華やかであればあるほど、「誰……?」みたいな(笑)。そんな感じですね、毎回。

「歌っている人」がいなくて「歌」だけがある

小出:二階堂さんのステージを見ていてすごく感じたのが、「歌う人」、「表現する人」の不在なんですよね。「歌っている人」がいなくて「歌」だけがある。「表現している人」がいなくて「表現」だけがある。もちろん、二階堂和美というアーティストの存在感は圧倒的に「パーン!」とあって、それはもう絶対で、唯一無二のものなんだけれど、それにも関わらず、ステージ上には「歌」だけがあって、「表現」だけがあって、個人の気配はどこにもなくて……。びっくりしました。「なんだ、これは!」「こんなのはじめて!」って。ぶわって涙があふれて止まらなくなって。

二階堂:うわあ、すごい。それはうれしいですねえ。でも、そうなれていたら、私としては本望です。そこに自分の理想があるので。浄土真宗で言うところのご本尊のイメージ。阿弥陀如来って、本来は光なんですよね。

小出:かたちは仮のもので、光が本体なんですね。

二階堂:そうそう。もちろん、私が阿弥陀さまだ! とか、そういうことを言っているわけじゃないんですけれど、私はあくまでも仮の対象で、受け手の思いを照らし返すための存在だと思っていて。そういうかたちで、受け手の心に触れていくというか、揺さぶるというか、はたらきかけることができたら、すごくいいな、って。それだけなので。そこに自分のはからいは必要ないんですよね。もちろん、事前にいろいろ考えてやってはいますけれども、いざステージに立ってしまえば、そんなものは飛び越えて、ただ、やるだけ、みたいな。

小出:この間のライブも、もう、ほんとうに、はからいゼロの状態で、むき出しでステージに立っていらっしゃることが伝わってきました。頭で考えながらやっていたら、こういうパフォーマンスにはならないだろうな、って。

二階堂:そうですねえ。そういうやり方しかできないんですよね。そうでないと、ステージに立っていられないんですよ。「自分」というものが意識されてしまうと、逃げ出したくなってしまうので。元々は、私、人前に立つことが苦手なタイプなので。はからいとか、自意識とか、そういうところをぜんぶ取っ払って、むき出しにしておいてしまわないと、もう、とてもあんなことできない。

外からのはたらきかけのおかげで……

小出:むき出しになることで、逆に強くなれるんですね……。二階堂さんのそのお姿に励まされます。私だけじゃなく、ほんとうにたくさんの方が、二階堂さんに大きな力をいただいて生きていると思います。

二階堂:いやいや、そんな……。でも、私の方こそ励まされていますね、いつも。そもそも、自分がこうしてシンガーとして活動を続けていられること自体が、すごく不思議だなあ、って思うんですよ。さっきも言ったように、私、人前が苦手な上に、歌詞を書くのも苦手で……。まあ、歌うこと自体はすごく好きだし、それなりに自信も持っているんですけれど、ほとんどそれだけなんですよね。そんな私が20年近く活動させてもらえているのは、やっぱり、外からのはたらきかけのおかげにほかならないというか。

小出:外からのはたらきかけ、ですか。

二階堂:キャリアの中でね、「もう、私、やらなくていいんじゃない?」と思ったときもあったんですけれど。そんなときでも、「ライブに出てください」とか、「曲を作ってください」とか言ってきてくださる方がいて、どうにか続けてこられた。2011年に『にじみ』というアルバムを出したあとなんかは、一応やりたいことをかたちにできた手ごたえもあったし、結婚もして、地元でお寺のことやって、子どももできて、「ああ、もう、ライブはあまりできないな」「このまま引っ込んでもいいよな」と思っていたんですけれど。ちょうどその頃に高畑勲監督から『かぐや姫の物語』の主題歌制作のお話をいただいて、ふたたび引っ張り出してもらって、そうやってまた違う世界が開けていって……。

小出:ご縁がつながって、つながって、つながり続けて、その先に、いまの二階堂さんがあるんですね。

二階堂:その都度、ご縁をいただいて、外側からはたらきかけていただいたことで、今日までやらせていただいていて。ありがたいなあ、って。だから、ほんとうに、いままで続けてこられていることが不思議なんですよね。