Column
Dialogue
2017/03/11

二階堂和美さんとの対話/いのちの記憶はのこり続ける

撮影:三田村亮

半径1キロ以内のことを丁寧にやっていく

小出:私は、『にじみ』というアルバムを2011年に聴かせていただいて、それで二階堂さんのファンになったんですね。あの……ほんとうにありがとうございました。あの時期に、あのアルバムを出してくださって。ほんとうに、あの震災のあとの日本で、すごく本来的な歌を聴かせてくださったことが、どれだけ励みになったかわかりません。「ああ、やっぱり、こっちの感覚を信じていいんだ」「ただ、いのちを生きていくだけでいいんだ」って、そう思わせていただいたんです。

二階堂:ありがとうございます。ほんとうに、ねえ、『にじみ』を出させてもらったタイミングにも、因縁を感じていて。自分にとっての大きな節目でもあると同時に、日本全体、世界中と言ってもいいかもしれないですけど、2011年っていうのは、やっぱり、そういう本来的な感覚を取り戻すチャンスでしたよね。

小出:ものすごく揺さぶりをかけられました。

二階堂:でも、ほんとうは、もっともっと揺さぶりがかかるべきだったなあとは思っていて……。私たち、ぜんぜん揺さぶられ足りていないと思うんですよ。あれだけのことがあって、まだ6年しか経っていないのに、みんなね、すでに、どこかフタをしちゃっているところがあるので。

小出:たしかに……。あのとき、みんな、本来自分が持っている動物的な直感、いのちの力を感じたはずなんですよね。ほんとうは、それをきっかけに、そちらの感覚をいちばんに大事にして生きていく道を選べたはずなのに、なにか、それこそそっちの感覚にフタをして、どうしても頭だけで考えたことが優先されて、いのちがないがしろにされてしまうような……。社会的にも、いまだに、そういう状況が続いていますね。

二階堂:私はあのあと出産をして、子どもに引っ張られるようにして、ますます自分の動物的な部分に回帰していって……。でも一方で、世の中の動きに、もともと疎いのにさらに疎くなって、なにが起きているか、大変な目にあっている方々がたくさんいらっしゃるのに、なにもできないでいる、そのジレンマはあります。

小出:はい……。

二階堂:ほんとうはね、私は、ステージで歌えることももちろんすごくしあわせだけど、自分の半径1キロ以内のことを丁寧にやっていけたら、それが自分にとっていちばんしあわせだと感じているんです。毎日の生活を丁寧に送れることが、ほんとうはいちばんのよろこび。もちろん、自分の周りさえ良ければいいと言っているんじゃあないですよ。ただ、私たち一人ひとりがもう少し自然界の一員としての、謙虚な姿勢を取り戻せたら、いま社会で起きているような問題は、ずいぶん減らせるんじゃないかと思うんですよね。自分の目の届く範囲の生活をしっかり送るための情報なんて、ほんとうはごくわずかでいいはずで。余計な情報をみんなが無駄に得てしまうことで、問題でもないことが問題になってしまったりする。

小出:この世の中、不安を煽るような情報ばかりがはびこっていますものね……。半径1キロ以内のことをまずは丁寧にやる、というのは、いまという時代を生きていく上で、すごく大きなヒントになるかもしれないですね。ただ、いのちを生きていく。そこから離れなければ、絶対に変なことにはならないし、なりようがないと思うんです。

二階堂:ほんとうに。それさえできれば健やかでいられるというか……。もちろん、昔のお嫁さんとか、狭いコミュニティの中で、きついこととかいろいろあったと思うけれど。でも、人と人との間の問題は、仏教やなにかをヒントにしながら丁寧に対応していけば、解決できることも多いはずで。ちゃんとね、それぞれがつつましさを持って、知恵を磨いて暮らしていれば、放射能の問題みたいに、もう、どこから手をつければいいのかわからないようなことは起きてこないはずなんですよね。

「死」の側から「生」を見つめて

二階堂:みんな、もう少し、視野を狭くしてもいいんじゃないかな。それは決して悪いことじゃないと思うんです。

小出:ああ……。「視野を狭くする」と聞くと、ちょっとびっくりしてしまいますけれど、つまりは、いまここにあるものを「ちゃんと見る」ということですよね。

二階堂:そうそうそう。ここを見ないで遠くばかり見ていても。

小出:なにか、自分の中に満たされない感じがあって、だから「ここではないどこか」を求めてしまうんですけれど……。でも、最終的な目的が「満たされる」ことだとしたら、もう、いっそ、ここで満たされたらいいじゃない? って。

二階堂:ほんとうに。でも、若い子がそんなことを言っていたら、「いやいや、ちょっと、ちっちゃく収まり過ぎじゃない?」って心配になっちゃうようなところはあるけれど(笑)。

小出:まあ、人間、たまには思いっきり遠くを見てもいいんですけれど、その先にほんとうに自分の満足があるのか、一度、ちゃんと向き合った方がいいというか、それよりは、自分の満たされない感覚の原因はどこにあるのか、それを探っちゃった方が早いんじゃないの? とは思いますね。さきほど二階堂さんも「健やかに生きる」という表現をお使いになられましたけれど、ここで言う「健やか」の条件のひとつに、「見て見ぬフリをしない」というものがあるんじゃないかな、って。

二階堂:なるほど。そうですね。

小出:究極的な「見て見ぬフリ」って、やっぱり、死に関することだと思うんですね。もっとはっきり言ってしまえば、「自分もいつか必ず死ぬ」ということ。そこに、みんな、なかなかちゃんと向き合えない現実がある。でも、二階堂さんの歌って、その部分のスタンスがはっきりしているんですよ。完全に、「死」の側から「生」を見つめている。そんな歌ばかりで……。

二階堂:ああ、そうかもしれないですね。やっぱり、このいのちには限りがあるので。もちろん、いのちというのは、肉体のいのちが終わったらそれでおしまいというわけではないんですけれど、この世界で、自分がいのちに生かしてもらっている時間には、完全に限りがある。ほんとうに、そこからスタートしているんですよね。

明日声が出なくなってもいいから、今日燃え尽きてしまおう

小出:そのことを意識されはじめたのは、やはり、『にじみ』の頃からですか?

二階堂:そう、地元の広島に戻った頃からですね。実家に暮らして、おばあちゃん二人を同時期に介護して。お寺の仕事をする中でも、老いていく方、亡くなる方を、日々、すごく身近に感じて生きている中で、思ったんですよね、「ああ、やっぱり、人間、いつか死ぬんだ」って。また「お迎えがくるまでは、生きていかなきゃいけないんだ」とも。その意識というか、実感がなかったら、ほんとうに私は『にじみ』のようなアルバムは作れなかったと思うし、「私、こんなに歌えるのよ」みたいなことだけでは、とても活動を続けていられなかった。だから、その意識は、音楽とも切り離せなくて。

小出:そうなんですね……。

二階堂:『にじみ』のツアーのときも、実は、私、前半で体調を崩してしまって。後半は、もう、今日を最後に歌えなくなってもいいって、毎日そう思いながらやっていました。喉もぶっ潰しに潰して、それでも、今日手を抜くわけにはいかないって。そのぐらい、ほんとうにぼろぼろだったんだけれども、でも、明日声が出なくなってもいいから、今日燃え尽きてしまおう、って。それはね、いまでも、毎回思っていますけれど。やっぱり、このいのちには限りがある、その意識が、私を動かしているところはあります。

小出:すごい……。かっこいいです。

二階堂:いや、ぜんぜんかっこよくなんかなくて、ほんとうに、もう、やぶれかぶれで、ぼろぼろですけれど(笑)。でも、一期一会ですからね。それこそね。ほんとうに、今日のお客さんに手を抜いたら、明日はないなって思っています。それは、なんの気なしに仏教講演会にきた人たちに対してもそうで。私のことなんかまったく知らないおじいちゃん、おばあちゃんの前に出るときでも、いつも全力でやらせてもらっていて。80代、90代の方もいらっしゃるので。きっと、その方々は、この先、私の歌を生で聴くことは二度とないと思うんですよ。そんな中で、手を抜いたらね、申し訳ないなっていうのが……。だから、やっぱり、必死ですよね。毎回ね。

小出:やっぱり、すごくかっこいいです。