Column
Dialogue
2017/04/08

プラユキ・ナラテボーさんとの対話/あるがままを受けいれた先にいのちの動きが見えてくる

信仰心はかならずしも必要なものではない?

プラユキ:だからここにはふたつの信頼があるんですね。まずはいま言った、その時々にあらわれてくる現象や存在に対する信頼と。そしてもうひとつ、oneselfへの信頼と。

小出:自分自身への信頼。

プラユキ:そう。私たち自身の可能性への信頼ですね。いまどんなに悩み、苦しんでいても、正しく仏道実践をしていけば、ブッダクオリティーまで自分自身を高められるんだっていう。だから、そこにはかならずしも信仰心が必要なわけではないんですよね。

小出:信頼と信仰はそのまま結びつくものではない?

プラユキ:もちろん、信仰心から仏道実践に入っていく方もいらっしゃるし、そういう道も素晴らしいものです。でも、信仰心はまったくなくても、実証精神というか、ちゃんと自分で実験して、自分のこころとからだで確かめていきたいという気持ちが強い人には、まずは「提案」のひとつとしてブッダの教えを受けとめていただいて。ちゃんと自分で実践して、結果を見てっていう、科学的な精神を持ってやっていいですよっていうこと。正しく実践すれば、結果はかならず出てしまうので、そういった道も開かれているんです。

小出:ひとつひとつ、自分でやって、確かめて、「ああ、ほんとうだ」となったところから、ほんとうの意味での信仰心が育まれていく、と。 逆に言えば、こういう道が用意されていないと、いまの人たちはなかなか宗教に近づいていかないかもしれないですね。最初から確固たる信仰心を持っているような人は稀だと思います。

プラユキ:はい。私もどちらかと言えば実践から入っていったタイプでしたからね。

小出:先生もそうでしたか。

プラユキ:信仰心が先行していたわけではなかったので。「信じなさい」って言われても、枠にはめられるんじゃないか、とかね。そんな風に思っていましたから。

小出:確かに。いわゆる「宗教」には、そういうイメージがあるかもしれません。

プラユキ:でも、やっぱり実際にいろいろやってみると、どんどん結果が出てきたので。自分自身の体験として、「なるほど、なるほど……」と次々と原理が解明されていって、そうしてブッダの教えにだんだん頭(こうべ)を垂れるというか、それにしたがって信仰心みたいなものも浮かび、確立されてきたというか。そんな感じでしたね。

小出:ああ、だからかな。先生のご著書に書いてあることは、すべて体温を持ったものとして読めるんですよ。先生の声が、文章から、直に聞こえてくるような……。

プラユキ:ほう。たしかに私の場合、ブッダの教えは経典にこう書いてあるんだからかならずこうなんだ、っていう書き方はしていないですね。自分で人体実験して得た体感にいちばんフィットする日本語を探りながら書いていっている感じです。あくまで体感、体験が先にありきですね。

小出:教科書的な仏教書って、私は、結構、読み進めるのに時間がかかってしまうんですけれど、先生の本は、どれも、ものすごくすんなり読めるんです。

プラユキ:そうですか。それは小出さんも私と同じような体験を実際に体感なさっているからですよ。文章の奥にあるその感覚に直接アクセスされているんだと思います。それで、私の場合、教科書的な書き方ができないというか、正論が言えないんですよ(笑)。

小出:教科書的でないことばを必要としている人もたくさんいるんじゃないかな。これからもあたたかいことばでつづられたご本の出版を期待しています!

自他をともにしあわせにしていく道を説くのが仏教

小出:日本のお坊さんって、儀式のときに、こう、祭壇と向かい合って座りますよね。でも、タイのお坊さんは、祭壇ではなくて、一般参拝者に向かって座る。プラユキ先生のお話ってすべてそのイメージなんですよね。仏の智慧を、ご自身を通して、対面している人に伝えていくというか……。

プラユキ:そうですね。ブッダを絶対的なものとして拝んで、その地点からなにかを教えるというやり方ではなくて、あくまで、いま目の前に座っている人に向かって、その人が、いまここで楽になっていく道を、一緒に探っていくというアプローチを取っています。

小出:そこに私はとてつもないあたたかみを感じるんです。「抜苦与楽(ばっくよらく)」(=苦しみを取り除き、安楽を与えること)というのは、先生のご活動というか、仏教自体のひとつの大きなキーワードですよね。

プラユキ:はい。私は、最近では、「自他の抜苦与楽」という風に言っていますね。

小出:「自他の」抜苦与楽。

プラユキ:どうしても抜苦与楽と聞くと、自己犠牲とセットになりがちというか、自分はいいから、まずは他人を、みたいなイメージがあるでしょう?

小出:あるかもしれません。

プラユキ:でも、元のブッダの教えではそんなことはないんですよね。その証拠に、ほら、慈悲の瞑想も、「私がしあわせになりますように」からはじまったりするでしょう。

小出:ああ、そう言えばそうですね。

プラユキ:まずは私のしあわせを大事にして、そこからだんだん身近な人、周りのご縁のあった人たちを大切に思って、最終的に、地球上のあらゆるものへ……という風に広げていく。自己犠牲にもならず、そして、また逆に、自己中にもならず、という道を探っていくことが必要なんですね。

小出:自己中にもならず……。たしかに、自己中でやっていても、一時的に幸福感は味わえるかもしれないけれど、結局自分も周りも苦しめることになるんですよね……。

プラユキ:そうそう。逆に言えば、私がほんとうにしあわせになるためには、相手にしあわせになってもらうことが必要なんですよね。仏教には「随喜(ずいき)」ということばがあるように、自他ともにしあわせになれる道を探っていくことが説かれているのです。