Column
Dialogue
2017/06/12

梶田真章さんとの対話/無数のいのちの重なりの中に、今ここの「私」がいる

「願っても叶わない」「問題は決して解決しない」

梶田:あと、私が思っているのは、「願ったら叶いますよ」と言うのではなくて、「願っても叶わないことはありますよ」と。坊主はそのことをもっと語るべきだと思いますね。現代においては、とくに。

小出:願っても叶わない、ですか。

梶田:みなさん、なにか、問題を解決しよう、解決しようと頑張っていらっしゃいますけれど、その頑張りがしんどさを生んでいるのであって、そもそも、この世において問題が解決することはないのだ、と。解決しないままに終わっていくのが人間という存在なのだ、と。そういう風に、たとえば法然上人はおっしゃっていたと思うんです。その教えを受け止めたところに、まあ、日常的にいろいろな悩みは出てくるけれども、究極、悩みすぎることもなく、自分や他人を追い詰めすぎることもなくなってくる。そういう生き方もできるようになっていくのではないでしょうか。

小出:なるほど……。

梶田:もちろん、解決しようともがいたり、なんらかの願いをもって行動をしたりすることは悪いことではありませんし、私自身、大きな願いを持ちながら、それに対してなにかできることがあれば都度なにかしらの行動をとっています。しかし、基本的には、この世においては、すべて、自分の思い通りになるものではない。それでも、浄土に行けば、この世で解決しなかったことがすべて氷解していくのだ、そういう場所があるのだ、と。そのことを信じていれば、何度も言うように、自分の小さな物語が相対化されて、少し、生きていきやすくなるというか、自分の物語を生きていく覚悟を持てるようなこともあるかもしれませんので。だから、そういう視点を、浄土宗の、他力本願の坊主としては提供できれば良いのかな、と。「こういう物語もありますよ」「これを信じてみたらいかがでしょう」と。

小出:あくまで「提案」なんですね。

梶田:そうです。必ずそうでなければいけないとは思っていませんし、それを誰かに押しつけるつもりもありません。私は他力本願を旨とする信心の坊主なので、そのような物語があることをお伝えしているだけですから。「いや、私はやっぱり自力で頑張ってみます」という方には、もっと違った物語が意味を持ってくるのでしょうし。

小出:ひとりひとりが、まったく違う物語を生きているわけですからね。自分にとっていちばんのものが、他人にそのまま当てはまるかと言ったら、そういう単純な話でもない。

梶田:そこをきちんと理解することができたら、宗教による戦争もなくなると思います。もちろん、何度も申し上げますけれど、それは口で言うほど簡単なことではないですけれどね。やっぱり、人間というのは、自分がいちばん正しいと思いたい生き物ですからね。でも、そんな中でも、「自分が信じるこれこそが絶対に正しいと口に出してはいけないよ」ということだけは、お釈迦さまの教えに生きるものとしては、伝えていけたらいいんじゃないかな、とは思っています。みんながみんな、自分なりの正しさを持っている。その事実だけは共有できると思いますので。

小出:「絶対的に正しいなにか」を共有しようとするのではなくて、「みんなそれぞれに正しさを持っているよね」「それだけは知っておこうね」と、そこに共有点を見出していくということですね。

ひとりのお坊さんの話を何度も聞くことが大切

梶田:自分なりの正しさを持ちながら生きていくのが人間の姿であって、そこだけはどんなに時が経っても変わることはないと思います。その中で平和を実現していこうと考えるなら、やはり、やり方を考えないと。でも、こういう話も、いかに押しつけがましくなく語るかということは大事なんじゃないかとは思いますね。

小出:仏教のこと、宗教のことって、いつだって「自分ごと」でなければいけないとは、私も思っています。押しつけられた物語は、やはり、押しつけられた物語でしかないので、自分ごとにはなっていかない……とまでは言わなくても、なりにくいようなところがある。

梶田:もちろん、自信満々になにかを話している人に魅力を感じることはあるでしょうけれど、そういうのは、ただそのときだけの感動として終わってしまう場合が多いと思うんです。結局は、人間、誰かから聞いたことを鵜呑みにするのではなく、それを自分の中で咀嚼する時間というのが必要なんですね。宗教という分野においては、とくに。

小出:あれはどういうことだったんだろう? もしかしてこういうことかな? それともこういうことかな? と、自分なりに反芻する時間ですね。

梶田:そうですね。聞いたことを、自分の人生に照らし合わせて振り返っていく。そして、また話を聞いて、あらためて考えて……という繰り返しが必要です。そうしていく中に、「やっぱり、私はこう生きるしかない」という覚悟が定まっていく。そういったプロセスのないところでは、人は、一生の物語には、なかなか出会えないと思います。

小出:一生の物語ですか。

梶田:ですから、仏教といいますか、宗教、大きな物語に出会うためには、やはり、一回だけお坊さんのお話を聞くのではなくて、同じ人のお話を何度も何度も繰り返し聞くという姿勢が大切になってくると思いますね。最初はいろんなお坊さんのお話を聞かれてもいいと思うんですけれど、結果、最終的には、この方のお話をずっと聞いて行こう、というのをひとり決めていただいた方がいい。

小出:「この方は!」と思う方をひとり見つけることができれば、そのお坊さんの毎回のお話に照らし合わせて、自分の今立っている場所がわかりやすくはなりますよね。

梶田:ただ漫然とたくさんのお坊さんの話を聞かれていても、まあ、仏教知識は増えるかもしれませんし、さまざまな考え方、それぞれの信心に接することはできるとは思うんですけれど、結局、自分がどういう物語を生きたいのかという、宗教のいちばん大事なところが、かえってややこしくなってしまいますので。

今をあきらめ、未来をあきらめない

小出:ところで、さきほど「因縁」のお話をされましたけれど、そこに関して、もう少し詳しくうかがいたいんです。というのは、一般的には、どうしても、因縁と聞くと、運命決定論というか、「これから起こることはすべて決まっているということですか!?」という風に思ってしまう方も出てくると思うんです。でも、私としては、仏教は決して運命決定論を説いているわけではないと考えておりまして。

梶田:そうです。因縁というのは、あくまで、「そのときの私の因縁」と呼ぶことしかできないものです。

小出:そのときの、私の、因縁。

梶田:今、ここに、このかたちを取ってあらわれているこれを、あえて「私」と呼んでいるわけですけれど、その「私」というのは、さっきもお話ししましたけれど、ずっと続いて存在しているではなくて、一瞬一瞬、生じたり、滅したりしているわけですよね。だから、因縁というのはそこに見出すしかないものなんです。

小出:あくまで、今、ここにあらわれている「私」からしか、因縁は辿れない、と。

梶田:そう言うしかありません。そして、仏教が言っているのは、今、ここにあらわれている因縁をあきらめましょう、つまり、あきらかに見ましょう、ということなんですね。そして、あきらめるのは、あくまで今であって、未来ではない。未来をあきらめることはないんです。

小出:未来をあきらめる必要はない。未来を勝手に予測して、絶望することはない、ということですね。

梶田:諸行無常ですからね。今あらわれているものは必ず変わっていきますし、それによって未来も変わっていきますから。しかし、逆に、今をあきらめないで、未来をあきらめてしまう方が多いんですよ。今の事実を受け止めないで、未来はああなるんじゃないか、こうなるんじゃないかと勝手に決めつけて、あきらかに見ているつもりでいる。本来、未来はあきらかに見ることなんかできないのに。

小出:未来は、今ここにないですものね。今ここにないものをあきらかに見ることなんか不可能ですよね。

梶田:そうやって、今をあきらめて、未来をあきらめないということができるようになれば、結局、今の自分にとって良い因縁も、悪い因縁も、すべて諸行無常で、一瞬のうちに流れ去っていくことがわかってくるんですね。自分のことすら自分でままならないということを、それぞれの人生の中で確かめていけば、うまくいったときは自分の努力のおかげ、うまくいかなかったときは他人のせいというのは、やっぱり、ちょっと違うでしょう、という話に落ち着いてくる。

小出:今の自分のあり方を省みることにつながっていく、と。

梶田:はい。ただ、それもやっぱり一回聞いたぐらいでは「そうですか」という話にはならないので、何度でもお寺に来て、揺さぶられて、自分の人生を考えて、またお寺に来て、揺さぶられて、自分の人生を考えて……ということを繰り返していただかないと。

小出:そのプロセスは必須なんですね……。

存在するから信じるのではなく、信じるから存在する

梶田:まあ、それもすべて因縁次第でね。その時々で、話が届く場合もあれば、届かない場合もある。それは、私ひとりの力ではどうにもならないので。法然上人も「阿弥陀仏も力およばず」といったようなことばを遺されています。阿弥陀仏でも信じさせることができないんだから、どうして私なんかにできるものか、と。法然上人がこのことばを遺してくださったことは、私にとっては、とてもありがたいことですね。

小出:阿弥陀さまの本質というのは、まあ、決してことばにはできないものでしょうけれど、あえて表現するなら、どういったものなのでしょう?

梶田:阿弥陀さまの本質は、やっぱり本願でしょう。

小出:本願、ですか?

梶田:みんなを目覚めさせたいという願い。その願いというのは、普段は、私たちの中に眠っています。でも、それは、私たちが「南無阿弥陀仏」をとなえることで目覚めさせられていくんですね。

小出:願いが目覚めさせられていく……。

梶田:みんなと一緒に目覚めたい、みんなで一緒に仏さまになりたい、さとりたい。そういう願いが、念仏によって目覚めさせられていく。まあ、それが現代的な念仏の物語でしょうね。

小出:昔は違ったのでしょうか?

梶田:法然上人の登場以前は、阿弥陀仏の世界が西方にあって、自分は死後そこに行って仏さまにしてもらうのだ、というのが、一般的な、念仏に託された物語だったと思うんです。でも、現代に即して言えば、やはり、みんなばらばらの考え方、感じ方をもって暮らしているけれど、最後は一緒に目覚めたいよね、という共通の願いのもとに生きていく。そういう物語として受け止めたらいいのではないか、と。

小出:なるほど。

梶田:阿弥陀仏の存在は、あくまで主観的事実であって、客観的事実であるわけではありませんので。明治期に活躍した宗教哲学者・清沢満之(きよざわまんし)も言っています。「私どもは神佛が存在するがゆえに神佛を信じるのではない。私どもが神佛を信ずるが故に、私どもに対して神佛が存在するのである」と。信じたいかどうか、大切なのはそこであって、神や仏が客観的に存在するから信じるのではありません、ということですね。それと同じようなことを、たとえば親鸞聖人は、「ひとえに親鸞一人がためなりけり」ということばであらわされたのでしょう。