Column
Dialogue
2017/07/31

藤田一照さんとの対話/かたちなきいのちに「触れられた」瞬間

すべての存在はそのままスピリチュアル

藤田:僕としては、もう、すべての存在がそのままスピリチュアルだと言ってもいいと思うんですよね。

小出:スピリチュアルなものと、そうでないものがあるわけじゃなくて、この世に存在するものすべてが、すでにスピリチュアルなあり方をしているんだ、と。

藤田:そう。たとえば味噌汁なんかも、よくよく観察してみると、なにやら不思議な模様を作っているじゃない。お椀の中で対流が起こって、秩序を持って動きはじめるわけでしょ。あれ、不思議じゃない? 誰が起こしているの?

小出:誰が起こしているんですかねえ?(笑) いや、きっとその「誰が」はいないのでしょうけれど。不思議ですよね……。

藤田:なににおいてもそうですよ。そのものがそこに存在していることとか、その振る舞い自体が、すごく宗教的なあり方をしている。そういうところに、僕らはもっと目を向けてもいいんじゃないかと思うんですよね。

小出:霊的な存在が、物質的なものに宿って、そこでようやくスピリチュアリティーが発揮されるというわけではなくて、そもそも物質そのものがスピリチュアルな知性を持っているのではないか、と。

藤田:そう。物質がある秩序をもって振る舞ったときに、そこに霊的ななにかを感じられるというだけで、そのふたつはそもそもわかれていないんだよ、ということですね。

小出:「かたちなきいのち」が、「かたちあるいのち」として一時的にあらわれていて、「かたちあるいのち」の上に、それとまったく切り離されないで、「かたちなきいのち」の存在も感じられる。そもそもそれらは「ひとつ」。わけられるものではないですよね。

藤田:そう。「一元」「一如」ということですね。

いのちは壮大な実験場

藤田:ところでこんな脈絡のない話を続けていて大丈夫なの?(笑) ちゃんと記事にまとめられる?

小出:大丈夫です、ぜんぶ間違いなく「いのちからはじまる話」ですから(笑)。そもそも今回の企画に「正解」は設けていないし、それを求める気持ちもありませんので。ただ、「いのち」というキーワードをポンと真ん中に置いてみたときに、そこにどんな対話が生まれてくるのか、それをただただたのしんでいこう、というものなので、どうか安心してください。

藤田:わかりました(笑)。

小出:私は、Templeというのはそのまま「実験場」だと思っているんです。成功も失敗も、正解も不正解もなくて、ただただその場にあらわれたものをそのままのかたち、そのままの大きさで受けとめていく場。

藤田:なるほどね。それはいいですね。そもそも、いのち自体が実験場みたいなものだからね。

小出:なにが出てくるのかがわからないわけですからね。

藤田:そうそう。決まったものが決まったように出てくるわけじゃなくて、毎瞬、意外なものが出てくるっていう。しかもすべて一回きりの姿で。

小出:一回きり……。この自分だって、ほんとうはいつだって一回きりの姿なんですよね。そこを忘れたらいけないな、と思っています。「一回きり」という事実にこそ、いのちの「いのち性」があらわれてくるように感じるので。

藤田:そうだね。自分は大きないのちに組み込まれたものとして存在しているという実感は、いつだって持っておかなきゃいけないよね。

小出:その実感を持つことから、真にいのちを生きていく、ということがはじまっていくような気がするんです。私たち、ほんとうはいつだっていのちを生きているわけだけれど、その事実への自覚を持って、はじめてほんとうにいのちを生きることになる、というか……。

「信仰心」とは、つまりは「自覚」のこと

藤田:滝沢克己さんってご存知ですか? 元々、西田幾多郎さんに影響を受けて、カール・バルトに師事した神学者で、仏教とキリスト教の対話みたいな本をたくさん書いた方です。滝沢さんは、神と人との間には「第一次接触」と「第二次接触」の二種類があるって言うのね。

小出:「第一次接触」と「第二次接触」ですか。

藤田:あらゆる存在は元から神と接触している、それが「第一次接触」である、と。あらゆるものは、そもそもいのちを生きている、っていうことですね。ところが我々は、「第一次接触」の中にありながら、神との接触を見失っている、と。そこにイエス・キリストがあらわれて、「第一次接触」を完全に生きてみせた。イエスが成し遂げたのが「第二次接触」である、と。

小出:なるほど……。さっき私が言った「自覚的に生きる」というのが、イエスの歩んだ道、つまり「第二次接触」への道につながっていくわけですね?

藤田:そうそう。「第一次接触」には信仰も修行も関係ないんですよ。すでにそこにあるものだから。でも、だからといってそこにベッタリではいけなくて、ちゃんと自覚を持って修行をしていかないと、「第二次接触」は起こってこない、ということですね。

小出:となると、「信仰心」というのは、つまりはこの「自覚」のことなのかもしれないですね。

藤田:そういう風にも言えますね。

坐禅はいちばん純粋にいのちを表現している姿

藤田:道元さんも、最初にこの問題に取り組んだんですよ。「本来本法性(ほんらいほんぽっしょう)天然自性身(てんねんじしょうしん)」っていう言葉を本の中に残しています。「人間はみな本来成仏しているのに、なぜ祖師方は修行をしてさとる必要があったのか?」という疑問ですね。

小出:道元さんはその問題をどういう風に解決されたのですか? 答えは出たのでしょうか?

藤田:それが「只管打坐(しかんたざ)」だったわけですよ。坐禅っていうのは、言ってみれば、「第一次接触」に落ち着いている状態でしょう。つまり、いちばん純粋にいのちを表現している姿です。

小出:手も足も口も出さずに、ただただいまここに起こってくることにオープンでいる姿ですものね。ということは、坐禅をして、「そもそもいのちを生きていたな」と気づいて、その自覚を持ったままに生きていくのが「第二次接触」の道になるわけですね?

藤田:そう。風の性質って、ほんとうは世界のすみずみまで遍満しているわけでしょ? でも、あおがなかったら風は起こらない。

小出:確かに……。「あおぐ」というはたらきは、どうしても必要なんですね。

藤田:点として「第一次接触」を感じたら、今度は自分が「第一次接触」を表現する点にならなきゃいけない。風が遍満しているということを、あおぐことによって自分が証明していかなきゃいけないんです。

小出:それが「自覚の道」、「信仰の道」、つまりは「真にいのちを生きていく道」になるわけですね。そしてその「道」に終わりはなくて……。

藤田:うん。いのちに、はじまりも終わりもないですからね。

小出:……というところで、唐突ですがお時間です。はじまりも終わりもないいのちを、これから先も、自覚を持って生きていきたいとあらためて思える対話でした。「触れられた」者の大先輩として、今後もいろいろご教示くださいませ! 今日はほんとうにありがとうございました。

藤田:ありがとうございました。

藤田一照(ふじた・いっしょう)

1954年、愛媛県生まれ。灘高校から東京大学教育学部教育心理学科を経て、大学院で発達心理学を専攻。院生時代に坐禅に出会い深く傾倒。28歳で博士課程を中退し禅道場に入山、29歳で得度。33歳で渡米。以来17年半にわたってマサチューセッツ州ヴァレー禅堂で坐禅を指導する。2005年に帰国し、現在、神奈川県葉山の「茅山荘」を中心に坐禅の参究、指導にあたっている。曹洞宗国際センター所長。

http://fujitaissho.info/

※「まいてら新聞」【藤田一照さん(僧侶)の“いのち観” 前編&後編】も、どうかあわせておたのしみください。