おはようございます。小出遥子(こいではるこ)です。
この二日間、徹底的に休んで、完全復活しました~。
ご心配をおかけいたしました。
今朝起きて鏡を見てビックリ!
肌はツヤッツヤのプルップル、瞳はキラッキラ、
全身から光を放っているようで、
自分は仏さまかなにかかと思いました(笑)。
いや、ほんとうに。
「休む」って、すごいですね。
というか、いままでどれだけ休めていなかったか、ということですよね。
こうなってくると「毎日休んでしまいたい!」と思ってしまうのですが、
それじゃあ「休み」にならないですからね(笑)。
今日から、ぼちぼち仕事に復帰します!
こころとからだの声を聞きつつ、ね。
さて。
昨日も布団でゴロゴロしながら、
いろんなことを考えて……というか感じていました。
その中で、不意に、びっくりするようなアイディアが降ってきて、
私自身、開いた口がふさがらなかったのですが……。
そのアイディアの詳細は今日は書けないのですが(いずれお伝えします)、
まあ、自分がいちばん「手放したくない!」と思っているものを、
天に差し出すというか、「お返ししよう」というようなものですね。
びっくりしましたよ(二度目)。
ほんとうに、まったく、考えたこともないことだったから。
頭の中には「はあ? そんなことできるわけがないじゃん!」の声が響くのですが、
でも、肚の底では「ああ、それがいい。それしかない」と完全に納得していて……。
なにか、大きく事が動くときって、いつもこうなんですよね。
思考は、ものすごく抵抗する。
でも、「それしかない、やるしかない」という確信だけは強くあって、
最終的には、どうしようもなく、そちらの方に動いて(動かされて)いってしまう、という。
今回も、きっと、そうなっていくのでしょう。
そうやって、また、あたらしい景色に出会っていくのでしょう。
握っているものを「手放す」のは、もちろん、痛みを伴うことだけれど、
でも、そもそも、手の中にはなにもなかったのだとしたら……?
手放すべきは、大切ななにかではなくて、
そのなにかを自分のものにしたいと願う、寂しいこころの方なのかもしれない。
椎名林檎女史の「葬列」という曲の中に「生んで廃棄する勇気」という歌詞があって、「なぜ自分が生み出したものを自分で手放さなくてはならないのだろう」と、これは長年の私の公案だったのだけれど、なんか、たったさっき、ふいに、解けてしまった気がする。
そもそも生み出したのは「自分」ではない。そのことが腑に落ちると、自然にすべてが「手放される」ものなのですね。「手放す」のではなく「手放される」。というより、そもそもなにも掴んでなどいなかった。手の中には、はじめからなにもなかった。
それはなにも寂しいことじゃない。怖いことでもない。ただ、「そうだった」だけのこと。
さて、どこへ行くのかな。
どきどきします。
よい一日をお過ごしください◎
次回「遥子の部屋」は10月6日(金)20時からです。
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