おはようございます。小出遥子です。
今日はいきなり本題から。
仏教の開祖・お釈迦さまが菩提樹の下でさとりを得られたとき、
彼は、こんなことをつぶやいたと伝わっています。
奇なるかな、奇なるかな。
一切衆生悉く皆な如来の智慧徳相を具有す。(訳)
不思議だなあ、不思議だなあ。
すべての存在には、もれなく仏の智慧と徳とが備わっている。
このエピソードが、私は大好きで。
お釈迦さまは、さとった瞬間、
「不思議だなあ、不思議だなあ。」
って言ったんですよ。
決して、
「わかったぞ!」
とは言わなかった。
ここ、見逃されがちだけれど、
実は、ものすご~く重要なところだと思うんです。
先日もこのBlogに書きましたけれど、
本来的な「宗教」の役割って、
この「不思議さ」とか、「謎の感じ」とか、そういったものに
スペースを与えてくれるところにあると思うんですね。
「わからない」ものを、
「わからない」ままに置いておいてくれるというか。
人間社会って、とかく、
「わからない」を「悪」にしがちですからね。
「わからないもの」「理解できないもの」
イコール
「自分に害悪をもたらすもの」と判断して、
どうにかこうにか手を打とうとしてしまう。
つまり、自分の「わかる」物語に変えてしまう。
「答え」をでっちあげて、安心しようとしてしまう。
でも、そのことが、実は余計に「苦」を増やしているのだとしたら?
「奇なるかな、奇なるかな。」
「不思議だなあ、不思議だなあ。」
そんな風にして、素直にその「わからなさ」を表現できるよろこびを、
私たちは、ちゃんと自分に保証してあげないといけないんじゃないかなあ。
そのよろこびを奪うようなことばっかりしている
「自称・宗教」って……どうなの?
どうなのよ???
あはは!!!
朝から過激!!!(笑)
秋雨にしっとりと濡れた東京の朝です。
よい一日をお過ごしください◎