Column
Dialogue
2017/09/09

光岡英稔さんとの対話/武術を通じて「いのち」を知る

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私がお訪ねしたのは、武術家の光岡英稔(みつおかひでとし)さん。光岡さんは、韓氏意拳(かんしいけん)という中国拳法をはじめとする数々の武術・武道をおさめ、広くご指導にあたられています。

ある著名な武術研究家の先生をして「人類最強の男」と言わしめた光岡さん。いったいどれだけ「いかつい」方がいらっしゃるのだろう……と、正直、ものすごくドキドキしながらお会いしました。しかし、そこにあらわれたのは、意外なことに(?)とっても物腰の柔らかな、笑顔の素敵な男性でした!

しかしながら、武術・武道の世界に身を置き続けた方の言葉のひとつひとつは、やはり、とてつもなくシャープで……。と、同時にものすごくうつくしくて、数時間の取材の間中、私は、とにかく、圧倒されっぱなしでした。体感をともなった言葉の「強さ」を、身をもって感じました。

今回、光岡さんの口から語られた「いのちからはじまる話」は、はっきり言って、難解です。たぶん、これをほんとうの意味で「わかる」ためには、「生きる」ということに真剣に向き合うことが必須なのではないかな、と感じます。

禅の公案のようにして、折に触れて、何度も何度も味わいたい言葉たち満載の対話です。どうぞ、じっくりとおたのしみくださいませ◎

武術を通して宗教や思想の大元を探っていく

小出:今年の6月に光岡先生の韓氏意拳の初心者講習会に参加させていただいて。あの……なんというか、一種独特な体験でした。身体の動作としては、しゃがんだり立ち上がったりしているだけなんですけれど、その動きの中に、なにか、私個人の意志とはまったく無関係な「経験」とも呼ぶべきものが立ち現れてきて……。ごめんなさい、まだ、まったく言葉が追いついていなくて……。

光岡:意拳、武術って言葉でうまく説明できないものなんですよ(笑)。長年やっている人でも。感情も含め、感覚のことは言葉にならないんです。思想と違って、どうしても説明しづらいところがあるから。

小出:そう、まったくぴったりくる言葉が見つからないんです。でも、あの講習会の場で感じたことは、絶対に「ほんとう」のことだ! という直感だけは強くあって。それこそ「いのち」の感触を身体まるごとで感じさせてもらったような……。

光岡:みなさんがその場で経験したり、体験したりしたことっていうのは、すごく貴重なことだと思うんですよ。個人にとってね。でも、そこでなにを経験して、体験したのかということを言語化するには、やっぱり、ある程度時間がかかる。発酵させる時間が必要というかね(笑)。

小出:私の場合、その発酵に、かなりの時間を要しそうです……。

光岡:いや、それはみんな一緒ですよ。現代の教育のシステムに問題があるんですよ。情報の受け渡しだけみたいになっているでしょう、現代の教育って。情報量、アキュミレーション(accumulation)、速度感がいまの教育の中心で、より速く、より多く、もっと収集することが評価の対象になっています。そこが、問題でもありますが。

小出:確かに、大きな問題を孕んでいますよね。

光岡:みんな、知識としてはいろんな言葉を知っているわけですけれど、それと個人の経験、体験が結びついていないんですよ。たとえば、宗教の言葉に「空(くう)」とか「無」とかってあるけれど、その意味を身をもって体得した人って、果たしてどれだけいるんでしょうね? という話でね(笑)。そういったものって、本来、身体を通してしか知ることはできないわけで。

小出:身体を通して。

光岡:いろんな宗教や思想の大元には、必ず、誰かの経験、体験があるわけでしょう?

小出:確かに。どんなに精神的に深い境地に達する経験があったとしても、人間である限り、そこには必ずなんらかの体感がともなっているはずですからね。

光岡:その身体的な経験、体験を言葉に返していったところに、宗教や思想が生まれていったわけです。だから、そういった先人の経験を、いかに自分自身の身体に再現していくか、それが、本来、なにかを学んだり、教わったりということの中心になくてはならないものだと思うんですよね。

小出:なるほど。……ということは、先人がどういう風景を身体で見たり感じたりしていたのか、そこを知っていくための手段のひとつとして武術があるということでしょうか?

光岡:そうですね。武術はそこに位置づけられます。現代を生きる私たちと昔の人とでは、時代背景も、生活様式も、まるっきり違うわけですから、我々のこのままの感性で、昔の人の経験を考えようとしても、必ず失敗してしまいます。

小出:ベースがまったく違うわけですからね。

光岡:そう。だから、昔の人がどういう身体性、身体観を持っていたのか、そこを抜きにして経験を考えることはできないと思います。

小出:ひいては、宗教、思想を考えることはできない、と……。なるほど。現代における武術の重要性が、少し、わかってきたような気がします。

「他者」を通じてのみ「わたくし」を知れる

小出:いまの、昔の人の身体観、身体性の話に関連すると思うのですが、以前、光岡先生がおっしゃっていて、かなり印象的だったことがあって。江戸時代……戦国時代だったかな? そのぐらいの時代の人が、「風に凧が舞っている、これがこころだ」というような言葉を遺しているっていう……。

光岡:ああ。上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)という戦国時代の剣術家の遺した詩ですね。「凧を放ち、風の中でそれをひくがごとし」。要は、「こころ」というのは、凧が風の中に舞って、それが糸でひかれているようなものである、と。

小出:それが「こころ」ですか。それって、現代の我々が定義するそれと、かなり趣が異なるように思われるのですが……。

光岡:ここで言う「こころ」というのは、つまりは「わたくしのなさ」なんですよ。

小出:わたくしのなさ。

光岡:凧が風の中で飛ぶという風景、そこに「こころ」を感じて、上泉伊勢守は一句詠じるわけですよね。そのときに、当事者が、その風景を見ていることは確かなんですけれど、じゃあ、それをどこから見ているのか、というのは、決してわからないんですよ。地上から見ているのか、それとも凧として見ているのか、あるいは風として見ているのか……。そこに主語がないからわからないんです。これって日本語の特徴なんですよね。たとえば「海を見る」という日本語がありますよね。何気ない文ですけれど、これ、英語では成り立たない文なんですよ。

小出:確かに。英語だと、頭に必ず主語が付きますものね。

光岡:そう。IとかHeとかSheとかを入れないと文法が成立しない。でも日本語だと主語なしで意味が通じてしまう。これこそ、日本文化における「わたくしのなさ」の証明ですよね。

小出:「海を見る」ことによって「わたくし」を知り、「風に浮かぶ凧を見る」ことによって「こころ」を知る……。

光岡:私たちは、「他者」を通じてのみ、「わたくし」や「こころ」を知ることができるんです。

小出:「他者」を通じてのみ「わたくし」を知ることができる……。うーん。なんだか変な感じもしますけれど、実際、そうなっているんですね。