今回のことばは『法句経』からの引用です。
うらみを捨ててこそ……。なるほど、確かにその通りだろうなあ、と思わず頷いてしまうような、説得力のあることばです。どんな人だって、できることならいつでもこころ穏やかに暮らしたいと思っているはずですから。
でも、このことばを文字通りに受け取って、「さあ、うらみを捨てよう!」「相手をゆるそう!」と思ってみたところで、そうは問屋が卸さない、というのが世の常で……。「なんで私がこんなことしなきゃいけないの? 悪いのはぜんぶ相手なのに!」そういった気持ちから完全に自由になれる人なんか、そうそういないのではないでしょうか。
でも、ふいに、こんなことを思ったのです。「うらみを捨てる」「相手をゆるす」のを難しいことにしてしまっているのは、この「私」なのではないかな、と。というか、そもそも、すべて、この「私」が「捨てる!」とか「ゆるす!」などと言って力んでしまうがために、話がこんがらがってくるのではないかな、と。
「ゆるす者」と「ゆるされる者」とを立ててしまうと、どうしても立場の傾斜が生まれてしまいます。そこにまたあらたな「苦」が生まれてこないとも言い切れなくて。
でも、そういった「苦」の元になるような関係性など、実際にはどこにも存在しなくて、ほんとうは、ありとあらゆる事物が、瞬間ごとに「縁」にしたがって、あるがままに立ちあらわれているだけなのだ、というのが仏教的な解釈です。そういう意味において、「私」と「あなた」と「彼」と「彼女」との間には、ひとつの「差」も生じようがないのです。
ほんとうの「ゆるし」というのは、「ゆるす私」も、「ゆるされる相手」もなくなってしまったところに、ただただ、静かに生まれてくるようなものなのではないでしょうか。「ゆるす」という動詞はなくて、そこにあるのは、「ゆるし」そのもの、ただそれだけ……。
このことを、おなかの深いところから、理屈を超えて「理解」できたとき、すべての「うらみ」はおのずから解き放たれ、ほんとうの意味でのこころの平安が実現されるのかもしれません。
強い感情に身心を支配されそうになっているときこそ、深呼吸ですね。力を抜いたところに「あるがまま」「そのまま」に見えてくる真実だけが、この世界に延々と続く負の連鎖を断ち切る力を持っているような気がするのです。
(「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年9月20日発行号より転載)