今回のことばも『法句経(ダンマパダ)』からの引用です。
「不放逸」は、パーリ語でappamadaと表記するのだそうです。aは否定語。ppamadaは自分の考えや他人の考えに酔って、真実が見えなくなっている状態。つまり、お釈迦さまは、私たちに対して、「酔っ払った状態で生きることのないように」と戒められているのです。「酔っ払った状態で生きていても、結局、死んでいるようなものなのだから」と。
もうひとつ見逃せないのは、お釈迦さまは、「真実」というのは「考え」の中にはない、とおっしゃっているというところですよね。「私」や「あなた」がいくら「考え」を尽くしたところで、結局、「真実」には辿り着けないのだ、と。
これは、裏を返せば、「真実」というのは、思考が休んで、「個」という名の幻想へと閉じた「私」や「あなた」が消え去ったところに、そのまま、ありのままの姿として立ちあらわれてくる、と言えるのではないでしょうか。
うーん、ややこしいなあ……。随分と難しいことをおっしゃるなあ……。と、思わず考え込みそうになってしまいますが、この「考え込む」という行為そのものを、お釈迦さまは戒めていらっしゃるのですから、もう、どうにもこうにも逃げ場がないと言いますか……(苦笑)
でも、「あ、私、いま、自分の考えにはまりこんでいたな」と気づくことは可能ですよね。そうして、毎瞬毎瞬「私」に気がついて、「酔い」を覚ましていくことだけが、もしかしたら、唯一の「不死の道」、文字通りの「活路」、「生きる道」になるのかもしれない……。
それを希望の光と見て、今日も一日、勤め励んでいこうと思います。
(「ほぼ週刊彼岸寺門前だより」2015年10月18日発行号より転載)