Column
Dialogue
2017/06/12

梶田真章さんとの対話/無数のいのちの重なりの中に、今ここの「私」がいる

「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回、私は、法然院貫主の梶田真章さんをお訪ねしました。

「いのち」を真ん中に置いたお話は、いつだって、真の意味で「自分ごと」として語られなくてはならない、と私は考えています。いのちに決まったかたちはなく、したがってそこには絶対的な正解もないからです。いや、あえて言うのなら、個人が生きる「物語」の中に真実はある。つまり、真実は、人の数だけあるということです。

今回、梶田さんは、穏やかでありながらも非常に確信に満ちた口調で、ご自身の信心から湧き上がってきたお話をお聞かせくださいました。それでいて、はじめから終わりまで、「これは、あくまで、私の信じる道です」「私の物語です」という立ち位置を決して崩されることがありませんでした。私は、そこに、大変な感銘を受けました。梶田さんの誠実なご姿勢に、決して絵空事なんかではない「世界平和」への道筋を見たような気がしたのです。

「わたしはわたし」「あなたはあなた」を生き切ったところに、はじめて、ほんとうの意味での自他へのリスペクトが生まれて、「わたしはあなた」「あなたはわたし」という世界が開けてくるのかもしれません。

深いところから、なにかをお感じいただけるとさいわいです。かなりのロングダイアローグですが、お時間のございます際に、どうかじっくりと味わってお読みださいませ。

※このダイアローグをベースとした「Temple@法然院」というイベントを開催いたします。梶田真章さんご本人もご参加くださいます。詳しくは記事の最後でお知らせいたしますので、どうかお見逃しなく!

取材協力:杉本恭子

いのちがなくなることはない

小出:今日は「いのちからはじまる話をしよう。」ということで法然院さんにうかがっております。どうぞよろしくお願いいたします。

梶田:よろしくお願いします。

小出:さっそくですが、梶田さんのご著書『ありのまま―ていねいに暮らす、楽に生きる。』(村松美賀子=構成・文 リトルモア=刊)の中に、かなり印象的な文章があって。

「いのちを大事にする」とかんたんに言いますが、ただ単に死ななければいいというものでもないのです。どのように自分の、そして他のいのちと関わっていくか。「死なない、殺さない」という特定の側面からではなく、もっと大きなところから考えられるとよいのですが。

小出:もちろん、これは前後の文脈あってのご発言ではあるのですが、私は、この「ただ単に死ななければいいというものでもないのです」というところに、まあ、非常にスカッとしたと言いますか、「ああ、これだ」と……。長年の間、意識的にであれ、無意識のうちにであれ、どこか違和感を覚えていたことに、まっすぐに光を当てていただいたような気がしたんです。

梶田:私は、人間の場合、一度誰かに出会ってしまった以上、もしその方がお亡くなりになったとしても、その方のいのちがなくなるということはないと思っているんです。

小出:いのちがなくなることはない、ですか。

梶田:その方が生前に出会った誰かの中に、いのちが重なっていくと言いますか……。

小出:いのちが、重なる。

梶田:亡くなった方は、生きている方の中に重なって、いつだって一緒に生活している。亡くなった方のいのちは、常に、生きている方のいのちに直に重なるようにしてあらわれていると思うんです。これが事実なのかどうかはわかりませんけれど、私はそういう風に信じて生きています。

小出:どこか遠くから見守っているとかそういうことではなくて、もっと直接的に、今、ここの私の上に、亡くなった方のいのちはあらわれている、と。

梶田:そうです。亡くなった方のいのちを重ねて、今、私は、ここに生きている。そういう風に信じています。それは親族であったり、これまで法然院に関わっていただいた方々であったり、ありとあらゆるすべてのいのちが私の上に重なっているのです。

小出:ありとあらゆる、すべてのいのちが……。

「いのちがあなたを生きている」ということばの意味

梶田:結局、いのちというのは、それぞれの人の中に、それぞれの重なり方で重なって存在しているものだと思うんですね。それを、仏教では「縁起」と言います。「私」というひとつのいのちが、他と切り離されて独立して存在しているのではなくて、さまざまな方のいのちがここに重なって、その重なり方次第で、存在のあり方が変わってくるのだ、と。その、いのちのありようを、お釈迦さまは「無我」ということばで表現したのではないでしょうか。

小出:「私」という、ずっと変わらない、固定された実体が、ひとつ、独立して存在しているわけじゃなくて、いろんないのちとの出会いの中に、重なり合いの中に、その瞬間、その瞬間の、まあ、あえて言うなら「私」が、たちあらわれてくる、ということですね。

梶田:それが「いのちが私を生きている」「いのちがあなたを生きている」ということばの意味だと思うんです。だから、まあ、より正確に言うのなら、「いのちが“そのときの”あなたを生きている」ということになるでしょうかね。

小出:あくまで、「そのとき」、つまり「今」の話である、と。

梶田:そういうことです。

小出:過去に出会った人たちのいのちが重なったところに、今の私がある……。

梶田:そういう意味で、人間というのは、そのかたちがなくなっても、いのちがなくなるわけではないんだ、と。

小出:なるほど……。今のお話は、お互いに生きているけれど、いろんな事情で会えなくなってしまった人に関しても、まったく同じことが言えますよね?

梶田:もちろんです。

小出:私も、これまでの33年間の人生において、いろいろな出会いを経験したと同時に、いろいろな別れも経験してきました。死別もありますけれど、そうでなくても、お互いにまだ生きているけれど、まあ、いろいろあって、今生では、きっと、もう二度と会うことはないのだろうな、という人たちもたくさんいて……。でも、さっき梶田さんもおっしゃいましたけれど、ほんとうに、人間同士、一度出会ってしまったら、その方の存在を「なかったこと」には決してできないんだなあ、という思いは実感としてあるんです。

梶田:ええ。

小出:それでも、もう会えない、この目で見ることができない、手で触れることができないその人たちが、どうしようもなく私の中にいることがわかるんですね。いや、「いる」と言ったらことばがおかしいんですけれど、彼らの存在が今の私を作っているというか、今ここに、この瞬間に、このように私という存在をあらわす、ひとつの大切なご縁になっていることは間違いがなくて。だから、別れというのは、毎回、ものすごくつらいものだったりするわけですけれど、だからと言って、一度出会った人たちがほんとうの意味で「消える」ことは決してなくて。今の私というあらわれの上に、彼らは、疑いようもなく重なっている。その事実をきちんと見つめれば、一回一回の別れに、悲しみ、惑い、もがきながらも、不思議な安心感の中で、どこかくつろいで生きていくことは可能なんじゃないかな、と思っています。

良いことも悪いこともすべて必然。偶然はない

梶田:「縁」の話ですけれど、現代の人は、自分にとって都合の良いことがあったときだけ「良いご縁だった」と言って、悪いときには「運が悪かった」と言うんですね。簡単に言うと、良い結果は必然で、悪い結果は偶然だと思いたい、そういう考えの中で、多くの方は生きていらっしゃる。でも、仏教では、すべては「因縁(いんねん)」の中で起こってくるととらえるんですね。その視点は、やはり、大切なんじゃないでしょうか。

小出:この世に偶然なんかなくて、良いことも、悪いことも、すべて縁の中で、必然として起こってくるのだ、と。

梶田:良いことを思ったり、悪いことを思ったり、あるいは実際に良いことをしたり、悪いことをしたり……そういった「業(ごう)」と呼ばれるようなものが、すべて、まあ、難しいことを言えば「阿頼耶識(あらやしき)」を形成して、それが、いつかどこかでなんらかのかたちとなってあらわれてくると考えるのが仏教です。

小出:それは、良いことをしたから良いことが起こるとか、悪いことをしたから悪いことが起こるとか、そういう単純な話ではないんですよね?

梶田:そう。それはあくまで各々の解釈であって、実際にはそれがどこでどういうかたちになって出てくるのかはわからないわけですよね。でも、そうなっているということを信じて、良きにつけ悪しきにつけ、すべて私の業縁であって、それを引き受けていく、という覚悟していくことの中に、「他力(たりき)」の理解が生まれてくるのだと思います。

小出:他力。良いことも、悪いことも、すべて阿弥陀さまにおまかせしてしまうという道ですね。

梶田:そうして「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」ととなえながら生きていく。

小出:「おまかせ」というと、なにか、責任感のない生き方のように思われてしまいがちですけれど、実は、そこには大変な覚悟がともなっているんですね……。

出来事それ自体に善悪はない

梶田:ただ、そういった覚悟を持つことは、まあ、なかなか簡単なことではないですよね。だからこそ、たいていの方は、良いことが起きたら良いご縁、悪いことが起きたら悪いご縁、という風に、自分の中で意味づけをしながら生きているわけですけれど、それはあくまでその方ご自身の物語でしかないわけで。自分の目から見て、そのときそのときに良いとか悪いとか思うだけのことであって、それ自体に善悪があるわけではない。

小出:出来事自体には善悪はない?

梶田:たとえば、法然上人だって、幼い頃にお父さんを亡くされたからこそ出家をされて、その結果としてこの法然院が生まれて、現在に至るまでいろいろな方に集っていただいている、そういう事実もあるわけですから。

小出:ああ……。そういったことを思うと、なにが良いご縁で、なにが悪いご縁になるのかわからなくなってくるというか、ご縁自体に良いも悪いもない、ということが理解されてきますね。

梶田:ええ。ただ、ご縁に良いも悪いもないということを信じられるときもあれば、信じられないときもあるというのが人間ですからね。「これが正解だから必ずそう信じなさい」ではなくて、「そういう風に思って生きる道もありますよ」ということを、坊主としては申し上げていけばいいのかなと思います。

小出:そういった言い方をしていただけると、確かに、よりこころに届く気がしますね。あんまり「これが正しいんだ!」みたいなことを言われても、受け手としては身構えてしまうところがありますので……。

梶田:そうですね。それに、その瞬間に届くことはなくても、後々、なにかが起こったときにことばがよみがえってくることもあるでしょう。だから、私としては、その瞬間に即座になにかを届けることは目指していないし、望んでもいないんですね。

小出:届くも届かないもご縁次第ですものね。

梶田:もちろん、届ける努力だけは怠らずにしていきたいとは思っていますけれどね。ただ、それも、自分の意志だけでどうにかなるような話ではないですから。

「自分の意志」と呼べるものはほんとうにあるのか?

梶田:そもそも、そこに自分の意志と呼べるようなものがあるのかということ自体、疑わしいですからね。

小出:意志の存在自体が?

梶田:たとえば、今だって、私はほんとうに自分の言いたいことを言っているのか、というと、それはわからないわけです。今なら小出さんの表情やことばに一瞬一瞬反応しながら、そのご縁の中で湧き上がってきたものを「私のことば」として話しているだけですから。

小出:「これを話したいから話そう」という意志に基づいて話をしているのではなくて、あくまで瞬間ごとのご縁のあらわれとして、ことばが出てきている、と……。それは、なんだかわかる気がします。

梶田:だから、ほんとうのところ、自分の言ったことに責任を持つことはできないわけですが、でも、今の社会ではそうはいきませんね。

小出:自分ではそうは思っていなくても、他人が聞けば、それは明確に「あなたのことば」ということになってしまうわけですしね。

梶田:そういう風なところで社会は成り立っているわけですけれど、そこには責任がついて回るわけですから、息苦しい部分はあるでしょうね。

小出:「私の」とか、「あなたの」とかいうのは、まあ、言ってみれば幻想に過ぎないわけで。でも、その幻想が幻想であることに気づかないまま、「所有」という名のフィクションの檻の中でもがいているのが、現代人の姿なのかもしれません。

梶田:大切なことは「誰が語ったか」ではなくて「なにが語られたか」というところにあるんですけれど、大半の人は「誰がそれを語ったのか」というところに注目してしまうんですね。まあ、それは仕方のないことですので、私個人としては、私が語ったということで、仏法をみなさんに受けとめていただきやすくなるような、そういう自分を生きていくということは大切かな、と思っています。この社会ではね。