「いのちからはじまる話をしよう。」ということで、今回私は、羽黒修験の山伏でいらっしゃる星野文紘さんをお訪ねしました。
星野先達のお噂は、数年前より、感性の研ぎ澄まされた友人たちから、それぞれ別々の機会に耳に入ってきていました。「言葉以前の“こころ”や“魂”について、理屈を超えたところから、気取らず、ダイレクトに伝えてくださる素晴らしい方」というのが、彼らの共通の意見でした。具体的にどんなことを伝えてくださるのかと聞いても、どういうわけか、みんな笑って、「修行に参加すればわかるよ」とか「直接お会いした方が早いよ」とか言うばかりで……。
そんな中、星野先達の初のご著書が発売されました。タイトルは『感じるままに生きなさい』。そこには非常に簡潔に、力強く、我々現代人が失いかけている野生の感性をそのままに生きることの大切さが説かれていました。それはそのまま「いのち」を直に生きることでもあって……。星野先達の素朴なお言葉のひとつひとつに、心が、魂が、理屈を超えて震えるのを感じました。「まさしくTempleのテーマそのもの!」と、大興奮のままに即座にご縁を辿って、あっという間に今回のダイアローグが実現しました。
星野先達のお言葉は、とにかく、ハラに直接響いてくるんです。頭を経由せずに、そのままダイレクトに「ドスン!」とくる。私は、だいたい取材のあとは身も心もヘトヘトになってしまうのですが、先達とのお話のあとは、むしろ元気いっぱいになってしまって……。ああ、「感じる」優位の生き方は、かくも心地よく、爽やかで、たのしいものなのか! と、強く実感しました。
「感じるままに生きる」勇気が湧いて来るようなお話盛りだくさんです。どうか最後までじっくりとお読みくださいませ!
小出:ずっと星野先達にお会いしたかったんです。お目にかかれて光栄です。本日はよろしくお願いいたします。
星野:はい、よろしくお願いします。
小出:今回は、「いのちからはじまる話をしよう。」ということでうかがっております。
星野:「いのち」ね。
小出:はい。ひとくちに「いのち」と言っても、そこにはほんとうに幅広い意味があって。たとえば、この、小出遥子という、はじめと終わりを持つ、個別の肉体の生命のこともそうだし、その個別の生命を生かしている、なにか大きなはたらきとしか呼べないもの、それもまた、「いのち」という言葉で表現できるのかもしれないな、と。
星野:そうだね。「いのち」ということで言うなら、肉体のいのちと、魂のいのちがあるっていう風に言えるんじゃないかな。
小出:肉体のいのちと、魂のいのち。
星野:いのちは肉体と魂の両方でつくられている。そういう捉え方をした方がいいんじゃないかな、と俺は思うんだ。あえて言えばね。
小出:目で見えるし手で触れられる肉体と、見えないし触れられないけど、でも「ある」としか言えない魂と……。それらが合わさったところに、いのちはある、ということでしょうか。
星野:そう。現代の人たちは「魂はほんとうに存在するのか」とか、なにやら議論のタネにしてしまうけれど、昔の人たちは、疑いようもなく、いのちには肉体と魂の両面があるんだ、と。そういうところを生きていたんだよ。
小出:いちいち言葉にして考えるまでもなく、ごくごく自然に、そういういのちを生きていた、と……。
小出:どうして、私たち現代人は、そういう風に生きられなくなってしまったのでしょうか?
星野:それはやっぱり、世の中全体が「科学主義」に陥ってしまっているところに原因があると思うね。
小出:「科学主義」ですか。
星野:世の中には「科学」と「科学主義」とがあると思うんだよ。純粋な科学は「感じる」を元にやっている。だからそれはいいんだ。なにも悪いことはない。でも、現代の科学のほとんどは科学主義に陥ってしまっていると思うんだな。そうでしょう? 「感じる」ことを忘れて、「考える」ばっかりやっているじゃない。
小出:なるほど……。確かに、「感じる」をないがしろにしたままに、「考える」ばかりをしていると、なにか、とても大切なところが見失われてしまう気がします。
星野:そうなんだよ。
小出:でも、頭で考えるだけじゃ、もういろいろ立ち行かなくなってきているっていうことは、勘のいい人たちというか、真面目に生きている人たちなら、多かれ少なかれ、絶対に気づいているはずなので……。先達が主催されるワークショップや山伏修行体験がいまの人たちに大人気である理由がわかります。
星野:そうだね。ずっと頭を使って生きてきた人ほど、いま、俺のところに集っているね。最近、俺もいろんな人と会ってイベントをやったりしているけれど、ここのところの対談相手なんか、高学歴のエリートばっかりだもんなあ。
小出:そこに集うお客さんも、そういったタイプの方が多いのでしょうね。
星野:もちろん、そういう人たちばかりじゃないけれどね。でも、「感じる」ということにはね、一度、ちゃんと戻った方がいいんじゃないか、みたいなことは、みんな気づいていると思うよ。
星野:だからね、現代の課題として、魂が元気になるような場を、いかに作っていくか、っていうのは、ひとつ、あるんじゃないかな。
小出:魂が元気になるような場ですか。
星野:肉体と、魂とがあるわけだけれど、その魂部分を感じられる環境にないんだよ、現代は。
小出:そうかもしれません。
星野:もうさ、どこに行ってもビルだらけで、自然が少ないじゃない。それと、俺が思うに、祈りの習慣だな。それが日常の中にないのが、現代の大きな問題だと思うね。
小出:祈り、ですか。
星野:そう。昔はさ、まあ、近世までだな。日本でも、祈りっていうのは生活の一部だった。日常だったわけだよ。江戸時代まではね。それまでの日本には、宗教や信仰っていう言葉はなかったんじゃないかな。そこら辺の事情はよくわからないけれど、たぶんそうだと思うんだ。
小出:ああ、そういうお話、聞いたことがあります。幕末に欧米から「religion」という言葉が入ってきて、それに訳語をあてがって、「宗教」という日本語が誕生した、って。
星野:だろう? その時点でなにかが置き換わってしまったんだと思うんだよ。
小出:そうなんですね。
星野:江戸時代までの日本人の生活には、お寺だとか、神社だとか、あと修験道もそうだろうけれど、それがなにも特別な感じじゃなく、ふつうにあったわけだよな。だから、当然、祈りというのも日常の中にあった。現代を生きる我々に問われているのは、その時代の日本人の魂でいられるか、っていうことだよ。
小出:いまおっしゃっている祈りというのは、具体的には、どういったものなのでしょう?
星野:自分が祈りだと思えばそれが祈りなんだ。祈りの定義なんてどこにもないよ。
小出:感じるままに出てくるのが祈りというものだ、と。
星野:そういうこと。そういう表現がおのずからできるようになっていけば、魂もそれにしたがって強くなっていくよ。
小出:魂を強くするには、まずは、感じる力を培っていくことが大切なんですね。
星野:そう。感じるだけで先が出てくる。それにしたがっていけばいいんだよ。
小出:ご著書(『感じるままに生きなさい―山伏の流儀』さくら舎=刊)にも「自分の魂は先を歩いている」といったようなことをお書きになられていましたね。
星野:魂は見えない世界を見ているんだ。自分がこの先、どういう風に生きていくのか、意識の上ではわからないよ。でも、魂はいつだってしっかりとそこを見て動いているんだな。
小出:それこそ、無意識の世界を……。
星野:そういうこと。魂は無意識の世界を生きているんだ。だから頭だけ使ってなにかをずーっと考えていても、答えなんかなかなか出てこない。けれど、ふっと意識がそれた瞬間に出てくるものっていうのがあるんだよ。無意識の中にふっと出てきたことは、それをやりなさい、っていうことなんだ。
小出:それは、理屈を超えて「感じたこと」だからですね。
星野:そう。この本のタイトルにもなっているけれど、俺はよく「感じるままに生きなさい」って言うんだ。もう、そればっかり言っているね(笑)。
小出:「感じるままに生きなさい」。ほんとうに素敵なお言葉です。
星野:でもね、そう伝えると、「感じたままに生きるのは不安です」って言われてしまうわけよ。「感じたままに生きることなんてできるはずがないですよ」って。
小出:頭だけで考えると、そう思っても仕方ないかもしれません。
星野:そうなんだな。頭だけで考えるから不安になっちゃう。不安の声は頭から来るからね。
小出:不安の声は頭から来る……。
星野:だから、俺は「考える前にやっちゃえ」って言っているの。感じたことをやれば絶対に失敗はないんだから。それにね、そもそも「失敗しました」っていうのも頭の声でしかないんだ。
小出:「感じる」の世界、魂の世界には、成功も失敗もないんですね。
星野:そういうことだ。